「昨日は迷惑かけちゃってごめんね☆ でもますますトーフくんのこと、好きになっちゃったよ~」
「だから誰が豆腐メンタルやねん」

 翌日の昼間、電話を掛けてきた由良はすっかり元通り元気な“少女”に戻っていた。
 少々面くらいはしたが、俺は何事もなかったような気丈な口ぶりを心がける。

「今日はさすがに会えないけどさ、明日は一緒にお昼食べようね!」
「……うん」
「その時に昨日のこと、きちんとお話しするからさ」

 そう告げると由良はあっさりと電話を切った。
 俺はベッドにどさっと背中から倒れる。全身に入れていた力が抜けるのがわかった。

――昨日のこと。

――昨日の由良のこと。

 それを思うと、胸の奥がざわざわと、あたかも昨日の浜辺に寄せては引いていった小波のように騒ぎ出す。しかもその小波は、はるか遠洋に吹く風の影響を受けて、少しずつ高さを増していく。

 多分、俺はあまりにもこの世に対して無関心すぎたのだ。


***


「由良!? 由良!!」

 凶器に見立てたシャープペンシルを握りしめたまま砂浜の上にぐったりと倒れてしまった由良は、その美貌も相まって、まるで人形のようだった。

 肩をいくら揺すってもぴくりとも反応しない。
 鼻と口の辺りに手をやる。
 呼吸も感じられない。

 ……息をしていない?
 ということは、もしかして……。


「じ、じ、じ、じん、人工呼吸とかした方がいいのか……?」

 ここでまさかのファーストキスのチャンスか!?
 俺はゆっくりと由良に顔を近づけた。

……唇が意外に分厚いな、由良って。しかもうっすらリップグロスみたいなのも塗ってるじゃん。

 気づいた途端、暴れ出す心臓。口から飛び出るんじゃないかってほど、俺のTシャツを上下に動かしていた。
 ぶっちゃけ、今まで女の子とキスしたことない。
 周りの友達が彼女とのキスの話で盛り上がってるとき、囃し立てることしかできなかった。

 でもファーストキスが、彼女が気を失っている間なんて、アリなのか?

「――いやいや冗談言ってる場合じゃねえ!」

 多分これ、人工呼吸でどうにかなる症状じゃないだろ!?

 熱中症?
 しかしそれにしたって汗一つかいていないのはおかしいんじゃないか?
 ひょっとして、ウイルス感染?

 とにかく、救急車だ!

「ちょっと待ちなさい」
「……え?」

 誰だこのオッサン。

 グレーのスーツに全身を包まれた50代のオッサンが、電話を掛けようとする俺の手を掴んで引き留めていた。
 オッサンはいかにもインテリって感じの、つんとした冷たい顔で俺たちを見下ろしていた。
 いや、違う。
 俺のことなんか見ちゃいない。由良のことだけを見ている。

「局長、連れて行きましょうか」

 ずいっと身を乗り出してきたのは、別の白衣を着たオッサン二人組。
 スーツのオッサンに気を取られている間に、他のオッサンが背後に近寄ってきていることに俺は気づいていなかった。スーツのオッサンよりはいくばくか若そうだけど。

「連れて行くって、俺たちをか!? まさかお前ら、拉致しに来たのか!」

 俺は由良を守るべく、立ち上がった。
 オッサン達、怪しい。
 きっと俺たちはこのまま外国へと連れ去られるんだ!

「いや、君は無関係だよ。安心してくれ」

 はい? 俺は無意味ってか?

「用事があるのは、こちらの由良千景だけだからね」
「……よくわかんねえけど、由良に手を出さないでくれませんか? こいつ、俺の彼女なんです」

 心の中では「一応」と付け足す。一応、由良は俺の彼女だ。誘拐されるのを黙って見過ごすわけにはいくまい。

「知っているよ。千景から報告を受けたから」

 白衣のうちの一人が頷いている。

「はい?」
「千景は毎日、私達に日々の報告を送信しているのだよ」
「はあ? あんたら、由良とどういう関係だよ?」

 全く意味が分からなかった。
 どう見たって、由良の父親や親戚には見えない。
 由良千景の父親なら、もっとテンションが高くなければつじつまが合わない。完全に偏見だが。

「びっくりさせてごめんね」

 申し訳なさそうに眉尻を下げたのは、今まで黙っていた白衣の男Bだった。この中で一番柔和そうに見える。

「局長、南野君には本当のことを教えるべきではないですか。一応、こんなルックスでも彼氏のようですし」

 失礼すぎるだろ! 「一応」ってお前まで言うな!!

……いや、どうして俺の名前知ってんの、オジサン?

「いいだろう。こんなルックスの彼氏にも知る権利はある」

『局長』と呼ばれた50代のスーツ男が、ゆっくりと首を縦に振る。いやだから失礼すぎるだろって。

「しかし時は迫っている。赤羽、青羽、千景を運んでくれ」

 すると、白衣の男2人が担架の上に由良を二人がかりで乗せ始めた。

「ちょっと待ってくれよ! どこへ由良を連れて行くんだよ? 警察呼ぶぞ!」
「落ち着いてくれ、南野君。私たちは千景を生み出した父親なんだから」
「どういうことだよ? 由良の父親がこんなにテンション低くて暗いオッサンなわけねーだろ」
「私のテンションが低いのは関係ない気がするが……。由良千景は、国立疫学研究所と人工知能開発センターの共同開発で製作された、我々の作品だから、私たちが父親を名乗る権利があってもいいんじゃないかい?」

 息が止まるのは、今度は俺の方だった。

 食らいつこうとする手も、もう動かなかった。

 由良が、作品――?

 気づけば俺の目の前には、オッサンがポケットから取り出した名刺が突きつけられていた。
 ひんやりとしたフォントに書かれた肩書きは、物語っていた。

「よろしく頼むよ、千景の彼氏くん。とはいえ、」

――由良千景は、

「この世が滅びるすぐそこまでの間だけだがね」


――人間ではない、ということを。