40歳88キロの私が、クールな天才医師と最高の溺愛家族を作るまで

彼の仮説がもし正しいのであれば……俺に対して恋愛相手として彼女が意識している可能性が、十分にあるということでもある。
何とかして、少しでも距離を縮めたい。
願うなら、彼女に俺の気持ちを知って欲しい。
受け入れて欲しい。
その思いが膨らみ始めたタイミングだった。
だからこそ俺は、一世一代の大勝負に出てみることにした。

「森山さん、その雑誌は……」

あえて俺は、その雑誌の内容を知らないフリをして、話しかけた。

「川越の。縁結びで有名みたいですよ」

優花から、縁結びという言葉が出たのを、俺は逃さなかった。

「いつがいいですか?」
「……いつが良い……とは?」

優花は、俺がぐいぐいと川越の予定を決めようとするので、戸惑っていたが、最終的には彼女の趣味……SNS映えする写真が撮れるというメリットで、どうにか頷かせることはできた。

それからの俺の行動は、早かった。
この時を特別な日にしたいと思った。
彼女にとっても……俺にとっても。
だからこそ、気合いを入れたかった。

どうやって彼女に俺をもっと異性として意識してもらおうか。
川越の神社の力を、どんな風に借りようか。
どこで食事をして……どんな風に告白をしようか。

きっと、他の男性であれば、子供の頃に体験するであろう、このソワソワとした気持ちを、俺は40にもなってようやく味わう事になってしまった。
女性の事で右往左往する自分がいるなんて、この歳まで知らなかった。
でも、そんな自分は、嫌いじゃないと思った。
彼女の為なら悪くない。

でも、まさかこの時は、当日彼女に逃げられることになるなんて、夢にも思ってなかった。
2人で浴衣を着て、駅で待ち合わせる。
2人で名物のさつまいもスイーツを食べ歩く。
たったそれだけで、俺の心が弾んだ。

しかも、優花の紺色の浴衣は、彼女の肌の白さをより強調させる。

(触れたい……)

情けないことに、ずっとそんなことばかり考えてしまった。
そんな欲が彼女に伝わってしまったのだろうか。

「そろそろ帰らないと、日が暮れますね」

太陽がまだ高い位置にあるにも関わらず、目的地に行く前に、優花は帰宅を促してきた。
とても焦った。
優花は、自分と一緒にいるのが嫌なのだろうかと、不安になった。
だからこそ、俺は優花の手を掴み、早く神社へと向かいたかった。
神様の存在は、完全に信じている訳ではない。
だけど、神聖な土地がこの地球上に少なからずあるということは、これまでの人生の中で教えてもらったことがある。
川越の神社がもしその内の1つだというのなら、俺はその力に賭けたいと思った。
そう思いたいと、思えた事は……生まれて初めてだった。

神社に着いた時、優花はニコニコと楽しそうにしてくれていた。
風鈴を眺めていた時、お参りをした時、そして名物の鯛みくじをした時も、彼女は笑顔だった。
俺も釣られて、口角が上がりそうになる。
こんな時間が長く続いて欲しい。
そう思っていたのに……。
ほんの少しだけ目を離してしまった間に、彼女は俺の前から消えてしまった。

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体調が悪くなりました。
先に帰ります。
申し訳ございません。
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体温を感じない、たった3行が送られていた。
誰が去る時は、仕方がないと諦めていた。
相手の期待に、自分が応えられなかったのだから、と。
だからいつもの俺だったら

「体調が悪いのなら、仕方がない」

で、きっと済ませた。
だけど、今俺の心は、様々な感情に支配されていた。

今日を特別な日にすると言った時に、頷いてくれたじゃないか。
俺の側で笑ってくれたじゃないか。
楽しんでくれていたじゃないか。

本当に体調が悪いと言うのなら、どうして医者である自分に話してくれなかったという、優花への苛立ちと悲しさ。
もしかしたら、体調が悪いと言うのはいいわけで、本当は俺と一緒にいるのが苦痛だったのではないか……という不安と焦り。
そして、彼女の様子に医者なのに気づけなかった自分への怒り。

自分本位な感情は、理性を殺す。
だから感情は極力出さないように、努力をしたつもりだった。
理性は、俺にとって必要な武器だったから。
仕事をする為にも、自分を守るためにも。
それなのに、俺は感情が体を支配し、川越の街中を走らせる。

彼女を捕らえろと、俺の心が叫んだ。
もしも、彼女がバスではなくタクシーを選んでいたとしたら、この日中に捕まえることができなかっただろう。
そうだ。本当に家に帰りたかったのであれば、俺から離れたかったのであれば……タクシーで帰ってしまえばいい。
かつての俺がそうしたように。

だけど彼女は、タクシーを選ばなかった。
バスを、選んでくれた。
そのおかげで、俺は彼女を捕まえることができた。

選択とは、運命の分かれ道だと俺は仕事柄よく知っている。
自分の選択によって、自分の人生が作られるだけではない。
誰かの選択によって、自分の人生もまた、左右される。

俺の選択は、優花との関係性を確実なものにすること。
そして彼女の選択は……結果はどうあれ、俺にそのチャンスをくれた。

俺は、自分の人生が他人の選択に左右されたからこそ、俺の選択で彼女の人生を左右させたいと、自己本位なことを思った。
だから、彼女の気持ちを丁寧に慮ることなく、事を進めてしまった。
彼女のためだと、自分が選択した店に連れて行く。
彼女が好きだろうと、自分が選択した食事を食べさせる。
俺が選んだタイミングで、彼女に自分の想いをぶつけた。
そして、おそらく彼女の初めてのキスを……自分が選択したタイミングで奪った。

全部全部、自分の感情に任せた選択の結果。
彼女の想いが自分に追いつくのを待っている余裕なんて微塵もなかった。
彼女に、自分を正しい形で選択させるゆとりを与えなかった。

それに……。
俺は過去の選択の決着をつけないまま、未来へ進もうとした。
都合良く、忘れられるかもしれないと、思ってしまった。

だからだろう。
俺にこの試練が降りかかったのは、自業自得だったのかもしれない。


それでも、許されるなら俺は……彼女に俺を選んでもらいたい。
その為にできることは、何だってするから。
彼は、信じられないくらいに私を大事にしてくれた。
ただ受け取るだけでは申し訳ないくらい、彼は私にたくさんの想いを伝えてくれた。
伝える努力を、してくれた。
それは、分かっていた。

「私は、あなたのために何をすればいいですか?」

あなたの生活をサポートするために、家事を覚えることですか?
ダイエットして綺麗になることですか?
あなたの隣に立つのがふさわしいくらい、知識を身につけることですか?
医療事務の仕事ができるようになった方がいいですか?

思いつく限りの事を聞いてみた。
そんなことしか、思いつかなかった。
その度に、彼は言ってくれた。

「ただ、俺の側にいて欲しい」

と。
それから私を抱き寄せて、頭を撫でてからそっとキスしてくれて、また撫でてくれる。
まるで私を慰めるかのように。

その手は、私を安心させるものだった。
その声を聞くだけで、私はいつの間にか落ち着くようになっていた。
彼の体温なしで眠ることに、いつしか不安を覚えるようになっていた。


だけど。
記憶の片隅に住み続けている、かつての母親がことあるごとに私に問いかける。

甘い誘いがあったとしたら……まず疑いなさい。
必ず、何か裏があるから。


そんなことはないと、思いたかった。
打ち消したかった。
彼に限ってそんなことはないと。


それなのに。


ねえ。樹さん……。
どうして、そんなことを黙っていたの?
嘘を、ついたの?
私を……騙していたの?
一人暮らしの部屋というものは、自分にとっての居心地良さを最大限追求するものだろう。
人によっては、ピカピカに磨かれ、整理整頓された美しい部屋をキープし続けることはできるだろうが……ほとんどの人はいかにグータラするための城へと作るのではないだろうか。
ちなみに私は、断然グータラ派。

人をダメにするフカフカクッション。
ちょっと手を伸ばせばお菓子やお酒、服に漫画、ゲームなど、欲しいものがすぐ届くように配置にした、格安のネットショップで購入した家具。
そして……敷きっぱなしの布団。
それが、私の日常だった。

しかし、グータラ屋敷だったはずの私の部屋は、今この時はどこかの雑誌から抜け出たかのように、おしゃれ部屋風に作り替えられている。
そんな部屋の変化の根源が、これからやって来てしまう。
ほんの数分で。

(だ、大丈夫だろうか……)

今の私は、この部屋に引っ越してから1番、緊張していた。
綺麗に整えたローテーブルと座椅子の側で、私は正座をしながら、流れをもう1度思い出す。

おもてなしの料理は……自炊の自信はなかったからデリバリーで頼んでおいた。
自分以外の人間には見られたくないものは、急いで契約したトランクルームに押し込め、100均で買ったおしゃれな雑貨でできる限り、飾りつけた。
……クリスマスでもないのに。

(……や……やばい……)

私は、何度も時計を見てはため息をついてしまう。
気を紛らわせようとつけたTVの内容は、全く入ってこない。


(断るべきだったか……)

数日前の自分の判断を、心の底から後悔をしていた、その時。

ピンポーン。

(きっ……来てしまった……!)

急いで、インターホンの受話器を取る。

「も……もしもし?」

(違う!電話じゃないから!もしもしはおかしい!!)

「……じゃなくて……どなたですか?」

言い直してたところで、もう遅い。
くすくすと、微かな笑い声の後に、待ち人は言う。

「もしもし?」
「……からかってますか?」
「からかってないから、早く入れてくれ」

急かされた私は、震える指で第1の扉を開けるスイッチを押す。
迎え入れた待ち人が来るまで、私は第2の扉……私の空間の入口の前に立つ。足が、震えている。
心臓の音が、ますます激しくなる。

そして数分後。
もう一度チャイムが鳴る。
深呼吸を2回程してから、私は扉を開ける。
風が室内に入り込むと同時に、待ち人が私に覆い被さるように抱きしめてきた。

「ちょっ……樹さん……!こんなところで」
「会いたかった、優花」

そう言ってから、私も待ち人……氷室樹は優しいキスを私の唇に落としてから、私の耳元に囁いてくる。

「今日は招いてくれて、ありがとう」

体の芯まで届く、低くて聴き心地が良い声を受け止めながら、私はついさっきまで考えた、この後のプランを必死に思い出していた。
「いい部屋だね」
「そ、そうですか……?」

どうにか取り繕った部屋を、樹さんは気に入ってくれたらしい。

「ああ、君の匂いがして、落ち着く」
「……そ、そうですか……」

樹さんは、本当に表情を変えることが稀。
笑顔になることも滅多にないが……根本的に喜怒哀楽の感情を表情に出すことが苦手なのだと、言っていた。
だから樹さんは、どんな言葉も真顔で話す。
たとえそれが、少女漫画に出てくるキラキライケメンが発するような……砂を吐きたくなるような甘いセリフだったとしても。

「どうした?優花?」
「いえ……威力に自覚がない人の無邪気な攻撃って怖いなと思いまして……」
「……どういうこと?」
「いえ、何でもないですから!」

(自分の顔面力と言葉が、どれだけ相手にダメージを与えるか、この人本当に自覚がないのか……!?)

どんどん顔が熱くなる。
今体温を測ったら40度超えになるのでは……?
せっかく新調した……といっても恥ずかしくてネットでぽちっただけの下着が、自分の汗で濡れていっているのが、肌で分かる。

(着替えなきゃ……)

私は樹さんをこの部屋にある1番値段が高いクッションに座らせてから、テレビのリモコンを渡した。

「樹さんはゆっくりしててください。テレビ自由に見てくれて良いですから」
「どこ行くの?」
「ちょ、ちょっと洗面所に」
「そうか、分かった」

普通、これだけでもドキドキものだ。
でも、樹さんはそれをはるかに上回ってくる。

ちゅっ。

「!!????」

急に引き寄せられたかと思うと、樹さんに頬キスされてしまった。

「早く戻ってきて」

こんなことを、真顔でしてくる樹さん。

「……は、はいぃ……善処します……」

急いで準備していた着替え用下着セットを持って、洗面所に逃げた。

(私……今日……無事でいられるのだろうか……?)

洗面所の中で、用意したブラと下着のセットを見ながら、大きくため息ついた。
そもそもの始まりは、樹さんに告白されてお付き合い……という、私の人生の辞書には存在しないだろうと思っていたことが始まってしまった川越の日から。
残暑が、とても厳しい日だった。

その日は食事が終わった後、自宅の最寄駅まで樹さんに送って貰った。

「自宅まで送る」

とも言われたが、それはさすがに、丁寧に、そして迅速にお断りした。
万が一部屋の中を見られたら、恥ずかしくて舌を噛み切る自信があったから。

ちなみに私が樹さんと、名前で呼ぶように頼まれたのは、この日の帰り道の電車の中。
あの食事の店から、ずっと私の手を繋いでいた樹さんから突然

「優花さんと、呼んでもいいですか?」

と尋ねられたのが最初。

「……こんな名前で宜しければ……どうぞ……」

私がそう言った時、樹さんの、私の手を握る力が強くなった。
自分の汗が、移るんじゃないかと気が気じゃなかった。

「俺のことも……」
「え?」
「名前で呼んでくれませんか?」
「……はい?」

何だ、このやり取りは。
高校生が読む漫画雑誌の主人公カップルの、付き合いたてほやほやのシーンでよく見かける。
読んでいた当初は甘酸っぱいなぁ……と人ごとのように思っていた。
でも、いざ自分がその立場になってしまうと……それも……40代間近だとすると………ただただ熱い、という形容詞しか思いつかない。

「俺の名前、分かります?」

それはもう、自分でも何度も調べたので忘れようがなかった。

「樹……さん……ですよね……」

人前だったこと、身内でもない男性を名前で呼ぶということが、もう30年近くご無沙汰だったので、ぼそりと、小声で言うのが精一杯だった。

「やばい……」
「え?」
「嬉しいものなんですね、好きな人に名前を呼んでもらえるのって」

そう言った樹さんの顔は、真っ赤になっていて、今までで
1番口の端が上がっていた。
私は、その顔を見るのが恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまった。
けれど……。