氷室さんが私を連れてきたのは、住宅街にある小さな……けれど上品な料理屋さん。
一見すると、普通の一軒家に見える建物だったが、扉を開けると、まるで古き良き旅館に来たかのような雰囲気を醸し出している玄関があり、そこでは綺麗な着物を身につけた女性が迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、氷室様」

女将だという女性に案内されたのは、2人きりで料理を楽しむために作られた、ほんの少しだけ狭い個室。
一輪の生花が、テーブルの上を可愛く彩っている。
そのテーブルを挟んで、氷室さんと私は向かい合って座っている。
氷室さんが扉側で、私は奥側。
逃げ場が、ない。

「森山さん、飲み物どうします?」
「え?」
「食事はコースを頼みましたが、飲み物はここで頼むことになっているので」

氷室さんはそう言うと、飲み物のメニューを見せてくれた。

「氷室さんは……」
「俺はもう決めました」
「そ、そうですか……」

ラインナップされているお酒は、通常の居酒屋さんでは見られないものばかり。
心惹かれるものの、氷室さんの前で酔い潰れるのだけは絶対嫌だ。

「烏龍茶を……」
「お酒は大丈夫ですか?」
「大丈夫です!ここから家まで遠いですし」
「……そうですか」
「はい…………」

(か、会話……どうしよう……)

タクシーの中でも、氷室さんも私も何も話さなかった。
何となく、気まずかったから。
そして今も、それを引きずっているので、どうしていいか分からない。
せめて氷室さんから何か話してくれるのであれば、まだ返答するだけで済むのに、氷室さんはさっきからとても難しい顔をしている。

(……不機嫌そう……?)

私は、氷室さんと目を合わせないように、個室の中を観察した。
一目見ただけでも、質が良いと分かる数々のインテリアが、この店の値段感を伝えてくる。

(どうしよう……高いよね、この店……。いや、それより氷室さん、いつの間にこんなお店を……)

そうだ。
この内容なら会話できるのでは……?

「氷室さん、この店」

と私が話しかけると同時に、氷室さんがいつもよりずっと低い声でこう言った。

「どうして、俺に黙って1人で帰ろうとしたんですか?」