そしてその夜のことだった。
台所の倉庫に用意された犬の寝床のような寝所で休もうとしたその時、
「声を出さないで」
暗闇に紛れるように潜んでいた男に突然口を塞がれ、車に乗せられた。
それからあの熱湯攻め――入浴をさせられたのだった。

「自己紹介がまだだったね。私の名は安友正示。恐らく名は知っていたと思うけれども」

目を見開く美世を見て、正示は笑った。

(奥様の大切なお客様が、何故私を……)

当惑しきる美世を、正示は包み込むような優しい眼差しで見つめているのだった。

とびきりのいい男と女中達が正示のことを言っていたが、本当にその通りだと思った。
まともに目を合わすことなど到底できず俯き続けるが、顔を隠すように伸ばしていた髪が無いため、なんとも心許ない気分だった。
切り揃えられた髪は、香油を丁寧に塗られてまとめられ、片方の肩に落ちている。
なんとなくその毛束に触れると、正示が口を開いた。

「勝手ながら髪は整えさせてもらったよ。少し長すぎたからね。その髪型の方が清楚でよく似合っているよ」
「……ご冗談を」
「冗談なものか」

正示は顔を背ける美世の顔を覗き込むように近付いた。

「どうして冗談などと?」
「だって……こんな顔を人目に晒しては……」
「こんな顔?」

不意に正示の指が美世の細顎に触れて、くいと上を向かせた。

「こんな顔とはこの愛らしい顔のことかな」
「な……何を……」

揶揄しているのかと思ったが、正示は真剣な目をしていた。そしてそこには、憤りや悲しみをも微かに感じさせる熱がこもっていた。

「君は誰よりも美しく清らかだ。君に降りかかった不幸を想像すると、私の胸はかきむしられるよりもなお酷い痛みを感じる」
「……」
「君への仕打ちは目に余るものだ。私は絶対に君を救わなければと思ったんだよ」
「そんな……お気持ちは嬉しいですが……私の家はあそこのみです。どうぞお戻しください」
「それはできない」

断固として正示は言った。

「私は君を引き取るつもりだ」
「あなた様のような方にお仕えできることは身に余る光栄です。ですが奥様がなんとおっしゃるか……」
「そんなことは気にしなくていい」

露骨に怒りをあらわにして、正示は吐き捨てた。
そうして、美世を引き寄せる。

「君を私のものにするためなら、なんだってする」

美世は圧倒されるばかりだった。
熱を宿した黒い瞳を吸い込まれるように見つめていたら、不意に身体の自由を失った。
正示の腕の中にいた。
がっしりとした腕と身体。微かに香る整髪料の香り。
当惑して強張る美世を強い力で抱きしめ続ける。まるで、重く大きな罪にひたすら耐えるように。

すまない……本当に、すまない……。

吐息のような声は、そう言っているように聞こえた。
何故謝るのか……と困惑する美世を押し戻し、正示はじっと見つめた。

「誓おう。私は必ず君を幸せにするよ」
「……どうして私のような者に、そこまで親切に……?」
「それは、間もなく解かることだ」
「え……?」
「今日、君を引き取る話をしに行こうと思う。付いてきてくれないか?」