朝の厠掃除が終わり、屋敷に戻ろうと中庭に入ると、寒さが一段と身に沁みた。
今年一番の冷え込みだったが、霜が草木の上で朝日に煌めいている様はとても美しかった。

冬の朝の幻想的な風景の中に、目が覚めるような赤色を見つけて、美世は思わず足を止めた。
寒椿が大輪となって咲いていた。
昔からこの家には椿の花が多く植えられており、秋から春にかけて多種多様な品種が咲き乱れ、特に真冬には大振りで鮮やかな赤の椿が目を楽しませた。

その大輪の輪郭に指を伸ばす。
真っ赤なそれは、美世のあかぎれた指で触れるには憚れるほどに、艶やかに気品があって美しかった。

美世は昔から椿が好きだった。
そしてこのひときわ赤い寒椿が一番好きだった。
今年も愛でることができた喜びを噛み締めるように、凍てつく寒さも忘れて見入る。

「おいおまえ」

が、冷気よりも冷ややかな声に驚いて、肩をびくつかせた。

「何をぼおとつっ立っているんだい。花を盗もうとしていたなら許さないよ」

この家の女主人だった。珍しく早起きをしたらしい。

「申し訳ありません、奥様。とても美しかったもので、つい」
「ついだって? ずいぶんと余裕じゃないか。おまえ、今日が大切な客が来る日だってこと、覚えているんだろうね?」
「も、もちろんでございます」
「じゃあ何を暢気に花見なんぞしているんだい。おまえは掃除しか任されていなくて暇なんだから、きちんと隅から隅まで屋敷を磨き上げなければだめだろう、何を油売っているんだ!」
「申し訳ございません、奥様……! 仕事はきちんといたしますゆえ、どうぞお許しを」

いつも以上に気が立っている女主人の剣幕に委縮して、美世は凍った土の上に土下座した。
女主人は忌々しげになおも続ける。

「釘を刺すが、おまえは絶対に客に近付くんじゃないよ。その汚いなりの掃除女姿を晒したら、お客様に失礼になるからね」
「もちろんでございます。肝に命じております」
「解かっているならさっさと仕事に戻りな」

臭い物にするかのように手を仰ぐと、女主人は鼻を鳴らして去って行った。
美世はのろのろと立ち上がると、消沈した面持ちで屋敷へ戻った。

台所ではすでに女中達が大忙しだった。
朝食の準備と一緒に、今日の大切な客人のための昼食づくりにすでに取り掛かっていたのだ。
台所のいつも以上の戦場のような慌ただしさに、美世が半ば茫然となっていると、

「ほら突っ立ってないで早く仕事しな。ったく、いつも愚図なんだから」

年嵩の女中に追い立てられる。
美世が生来持つ穏やかな気質やおっとりとした立ち居振る舞いは、粗野な女中達からは鈍間と見られていた。

束の間でも冷えた身体を温めたいと思ったが、またどやされそうだったので、美世は掃除道具を持って足早に次の掃除場所へと向かった。

「ちょっと、応接間の準備手伝っとくれよ。奥様が気に入らないって最初からやり直せって言うんだよ」
「私だって手が離せないよ。奥様が茶請けの菓子をもっといいのにしろって、隣町まで買いに行けって言われたんだから」

廊下ではばたばたと女中達が立ち回っていた。

ここのところ、大事な客人を招待することが多い。
美世が仕えているこの家には年頃の娘がいて、結婚相手探しに忙しく、候補の若い紳士を招いては顔合わせをしているのだ。

(あの小さかったお嬢さまが、もう結婚するお歳になるなんて……)

自分の誕生日どころか正月さえ働かされている美世は、日々の流れの早さを感じずにはいられなかった。

「まったく、今回はいつにもまして張り切っているねぇ、働かされるこっちはたまったもんじゃないよ」
「そりゃあそうだろう、今日の相手は飛びぬけて金持ちだって聞くからね」

バタバタと動き回りながらも女中達はしっかりと愚痴を吐く。

「ああ、欧米相手の貿易で成功した若い実業家だって話だね?」
「それもとびきりのいい男だって聞くよ。そりゃあの怠け者の娘も珍しく張り切っるってわけだ」
「にしたって、あの娘の器量じゃあ無駄だろ」
「それを言っちゃあ私達の苦労が報われないじゃないのさ」

女中達は下品にけらけらと笑った。

「けども暢気に笑ってらんないよ。あの高慢ちきの女主人は隠しているけれど、この家が経営している会社はもう倒産しかけているって聞くじゃないか。だから万が一娘が玉の輿になれば、この家も羽振りがよくなる」
「そうすりゃあ使用人も増やせて、私達も楽できるようになるだろうさね」

女中達のおしゃべりは尽きないが手はきちんと動かしていて作業を終えてしまったのだからすごいものだ、とおっとりとした美世は感心したのだった。



噂の実業家は昼になって来訪した。

安友正示。
貿易会社を一代で成功させた若く有能な実業家で、家柄も申し分ない。
そして役者と見紛うばかりの美男で背も高く、由緒ある家柄らしい立ち居振る舞いも洗練されていて、まさに完璧な紳士だった。

当然のごとく多くの家から縁談の話が舞い込んできているという噂だったが、どういうわけか正示はどんな良縁も頑なに断っているとのことだった。
そこにきて正示の方から訪問の希望があったのだ。まさに天からの恵みだった。
なんとしてでも娘との縁談に漕ぎ着けさせなければ――と女主人は躍起になっているのだった。

正示は出された料理を褒め、会話も弾ませていた。
食事会は順調に進んでいたが、洋食フルコースも半ばに差し掛かった頃になって問題が生じた。
メインの肉料理がまだ来ないのだ。
会話の主である正示の仕事の話も尽きて、正示と女主人と娘の間にも沈黙が生まれるようになっていた。
料理番たちはいったい何をやっているのだろうか。
ついに業を煮やした女主人は、正示と娘に適当な言葉を残すと台所へと様子を見に行った。

その頃、台所では料理番と女中達が必死になって準備をしていた。
正示は仕事柄洋食に慣れ親しんでいるだろうと、女主人は見栄を張って料理番が普段作り慣れていない洋食フルコースを指定してきた。
食べる方はテーブルマナーさえ知っていればいいが、作る方はそう簡単にはいかない。
それでも悪戦苦闘してどうにかメインの肉料理を完成させた。
あとは盛り付けて配膳しにいくのみだった。

「おい誰か早く持っていけ!」
「こっちも忙しいんだよ……誰か手が空いているやつが持って行っておくれよ……!」

しかし、みな慣れない盛り付けに手をこまねいていて配膳しにいく余裕がない。使用人不足がここにきて負担となっているのだった。

「あの……」

必死の使用人達を見かねてそっと声を掛けたのは美世だった。
掃除担当の美世は、汚らわしいからという理由で普段は台所仕事をさせてもらえないので、今も手が空いていたのだ。

女主人から洋食を作れと一週間前に急に言われ、料理番だけでなく女中達も普段の仕事をこなしながら必死になって料理や盛り付けや配膳方法を勉強し苦労していたのを美世は知っていた。
努力している彼らの助けになりたかったのだ。

「よろしければ、私が持っていきましょうか……」
「ああ? そう言えばおまえがいたね! しかたがない、背に腹はだ。持って行っておくれ!」
「はい……!」

頼られたのは嬉しい。
美世は皿を盆に乗せて、応接間に向かった。

そこへ、女主人が苛々しながらやってきた。
皿が運ばれてくるのを見た女主人は、どやしてやろうと口を開いた――が、その運び手を見て悲鳴を上げた。

「おまえ! 何をしている!?」

びくりと美世は震えた。危うく盆を落とすところだった。

「お、奥様……! その、これは、みんな忙しくて余裕がなかったので手伝おうと」
「汚らわしい! 厠掃除のおまえが配膳など! 誰か!」

女主人の怒鳴り声に驚いて女中が飛び出してきた。そして瞬時に状況を把握する。

「何をやっているんだ! おまえは余計なことはしなくていいんだよ」

奪い取るように美世から盆を取る。

「ちゃんと手は洗ってから持ってきたんだろうね?」
「ええ、もちろんです……」

女中は逃げるように応接間へ向かった。

残された美世は、伏せていた顔を恐る恐る上げた。瞬間、ひやりと背中に悪寒を感じた。女主人の氷のような視線に射竦められたからだった。

「おまえは今日の大切な場の台無しにするつもりだったのかい」
「そ、そのようなわけでは」

骨が砕かれるのかというくらいに強い力で肩を掴まれた。

「いいか、おまえは何があっても表には出てくるな! その薄汚いなりと忌々しい顔を人前に晒すんじゃないよ! いいね!」
「……はい」

鬼のような形相の女主人に蚊のような声で返事すると、美世は逃げるように踵を返した。

恐怖と悲しみに胸がいっぱいになって、涙が溢れた。

汚らわしい。
忌々しい顔。

罵られるのは、とっくに慣れたはずだったのに。
涙がとめどなく溢れ、視界が歪み、前が見えなかった。

何か黒い人影がある、と気付いた時には、バタリ! とそれにぶつかっていた。

「も、申し訳ございません……!」

咄嗟に美世は土下座して、冷たい床に額を付けた。

「どうかお許しを、どうか……」

相手が何か言っているのが聞こえた。
叱責に違いない、と美世は身を縮こまらせ、必死に許しを請うて床に擦り付けた。

「きみ、聞いてくれ、そんなに謝らなくても」

肩に触れられてびくりとなる。
しかし、その手つきは優しかった。

「やっと落ち着いたようだね。どうか顔を上げてくれ。君はここの使用人かい?」
「はい」
「謝ることはない。勝手にうろついている私こそ詫びねばならない。すまなかった」

穏やかで低い声は心地よかった。
どのような方だろうと思ったが顔を上げる気にはなれなかった。忌々しいと女主人から罵られ続けたこの顔を晒すわけには。

「しかし、そう伏せられていては話し辛いな。顔を上げてくれないかい?」
「いえ、私のような下賤な者が」
「そんなことを言うものじゃない。古い世じゃあるまいし、私は殿様でも何でもない。人とは顔を見て話したいんだよ」

さぁと促され、恐る恐る顔を上げたが、目は伏せたままでいる。
こういう時、伸ばしっぱなしの髪が役に立つ。顔を隠せるからだ。

「若いお嬢さんだね。……歳は十代後半というころかな」
「は、はい」
「……」

男は沈黙している。
何か思考しているような不可思議な沈黙に、美世は不安になる。

しばらくして、さらに低い慎重な声色で男は言った。

「すまないが、顔をよく見せてくれないかな」
「……申し訳ありません、そればかりは」
「どうしても?」
「……どうぞご容赦を」

ふぅと小さな嘆息が聞こえた。
怒らせてしまっただろうか、と美世は不安になる。
けれどもそれよりも恐ろしいのは、この顔を見られてしまうことだ。

忌々しい悪魔の顔。

そうやって女主人からはずっと忌み嫌われ、けして人前にその顔を晒すなと脅されてきたのだ。
今晒してしまえば、この優しそうな男も変貌して罵ってくるかもしれない――そう想像すると、胸がきゅうとなって呼吸が苦しくなり、身体が強張ってしまうのだ。
だから叶うなら、このままずっと頭を下げて――

「申し訳ない」

男は急に大胆な行動に出た。
美世の顎を掴み、強引に上を向かせたのだ。

悲鳴を上げる間もなく、美世は長い前髪の隙間から惚れ惚れするような精悍な顔立ちを見た。
整った目鼻立ちに、意志の強そうな黒々とした瞳。
それはとても優しい色をしているが、どこか切羽詰まったような不思議な光をも宿していた。まるで無くしものを必死で探すような。

「ぁ……!」

男の手が前髪をよけた。
抵抗する間もなく、優しいと感じていた手に顔を晒され、羞恥と恐怖で目をきつく閉じる。
どんな嘲りの言葉が来るのか……そう震えていたら、

「なんということだ……」

悲しみに満ちた声が男の口から洩れた。
と思った次の瞬間、美世は息を飲んだ。
抱き寄せられてしまったのだ。強く、それでいて大切なものを包み込むように優しく。

「お離しを……どうか……!」

見悶えるが、さらに抱きすくめられる。
何が起こったのか全く理解できない美世の耳元で、男の吐息が聞こえた。それは涙を必死に堪えるように震えていた。

「君はここの使用人だったんだね。ずっと、ずっと前から」
「は……い……」

男は身体を離すと、美世の手を強く握った。

「ここに住み込みなのかい?」
「は、はい」
「なら、私の顔を覚えていておくれ」
「え……?」
「私は君を救う者だ」

あかぎれた美世の手に唇を寄せると、男はそっと美世を立たせた。

「すまなかった。仕事に戻っておいで。それと、ここで私と会ったことは、くれぐれも口外しないように」

茫然としている美世に「いいね」と念を押すと、男は去って行ったのだった。