「あの……?」


どうして、私を抱き寄せるの、と聞こうとした。

でも、聞く前に彼はさらに私を強く抱きしめてきた。


「琴莉……波音だよ……」


もう1度、そう囁いてきた。

まるで、私に言い聞かせるように。

でも、その声は記憶の中のものと違う。

じんわりと、私の中に侵食していく。

私が支えにしていた声が、消えていく。

彼が、声を出すたびに。



「やめてください」


私は言った。

彼は、どうしてと言いたげな目をして私を見た。



私が知っているアイツは、私の前で他の女の子に対していつもこう言っていた。


「なんだお前、俺に抱いてほしいの?」

と。

毎朝、私はそれを見ていた。

その言葉は私に向けられたものじゃなかった。

でも、その声を覚えることで、私は自分に向けて彼が言ってくれてるような気持ちになっていた。

そんな妄想をするだけで、私は十分だったのだ。

本当に。

でも、そんなアイツの声が、彼が話すことで上書きされていく。

私の支えがぐらりと揺らぐ。


「もう誰も話さないで」

「もう何も話さないで」


私は、彼が何かを言おうとする空気を感じ取っては、そう叫んだ。


忘れてたまるか。

忘れたくない。

どんどん消えて行く。

知っている音が。

私が立っていられる土台がなくなっていく。

看護師さんも、お父さんもお母さんも。

誰もが言った。

そんなことは重要なことではないと。

生きてさえいれば大丈夫だと。

そうじゃない。

誰も、私の気持ちをわかろうとしない。

命のありがたみを押し付けてくる。

生きていてよかった。

わかってる。

私は運が良かった。

わかってる。

わかってるからこそ、これ以上無くしたくない。

必死で生きてきた。

寂しさも辛さも虚しさも全部抱えながらも、私はアイツの声があったから、ここまで踏ん張ったのだ。

他の誰が、私のそんな気持ちをわかるだろうか。

わかるはずがない。

だって、誰も、わかろうとしてくれない。

どれだけ私が。

アイツの声だけを頼りに生きていたかなんて。

誰も知らない。

知らなくてもいい。

私だけの秘密でいい。

だから……。


「あなたがこの先、誰を抱いていてもいい」

「琴莉?」

「私のことは、もう抱いてくれなくてもいい」

「おい、琴莉何言って」

「だからどうか。どうか奪わないで下さい」

「奪うって……何を?」



私は、彼の目を見た。

ナオくんであると認識をしながら、彼に届くように言った。


「あなたが言ってくれた言葉を……奪わないで」


私が好きな声で言ってくれた言葉たち。