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年明け、無事に祝言が済み、春立てる霞の空にいよいよ旅立ちの日がやってきた。
おとっつぁんは意地張って見送りに来てくれないだろうからと、昨日のうちにお別れを言いに行ってきた。
「おめえはもう、小田崎様の家のもんだ。こんなところに来ることはねえ」
なんて言ってたものの、千紗が涙を見せると、おとっつぁんはすっかり武家の奥方姿になった娘をしっかりと抱きしめてめそめそ泣いていた。
長屋のみなさんもみんなもらい泣きで、ぬかるんだ路地がもっと湿っぽくなっていた。
街道の分かれ道には方正斎先生も見送りに来てくださった。
「新久郎、自信を持ってしっかりとお務めを果たすのだぞ」
「はい、先生、行って参ります」
規武が千紗に頭を下げた。
「千紗殿も、新久郎のこと、よろしくお頼みしますぞ」
「はい。武家の妻として恥ずかしくないよう、精一杯努めます」
新久郎の母がそっと千紗に包みを渡す。
「これは以前、あなたのお父さんが新久郎の着物代にと持ってきてくださったお金です。あなたが持っていなさい」
「でも……」
「良いのです。江戸に着いたらこのお金で算術の書物を買いなさい。あなたに必要な物でしょう。新久郎には内緒ですよ」
「はい。お母様も、お達者で」
「行ってらっしゃい。元気でね」
見送りの人々に手を振りながら、若い二人が旅立つ。
「江戸までは百十六里。長い旅だなあ」
「私は温泉が楽しみです」
「それは私もだ」と、新久郎が笑う。「なあ、千紗」
「はい、なんでしょう」
「江戸までの道のり百十六里。四里ごとに目印の松の木を植えるとすると、何本必要だ」
「三十本です」と、あいかわらず即答だ。
「ん?」と、新久郎は首をひねる。「百十六を四で割ると二十九だぞ」
「ですが、出発地にも植えませんと、目印になりません。だから一つ増やして三十です」
「ほう、そうか。なるほど」と、新久郎が振り返る。「だが、やはり二十九のようだな」
「どうしてですか?」と、千紗も振り返る。
「ほれ、見てみろ」と、新久郎が指さす方に道祖神の塚が立っている。
「出発地にはあれが立っておるから松の木はいらんだろ」
「あった方が遠くからでも分かりやすいです」と、千紗が頬を膨らませる。
「まあ、どちらでも良いではないか」と、新久郎は前を向いてすたすたと歩き出す。「世の中は算術のようにはいかぬものよ」
「もう」と、ため息をついた千紗は気を取り直して新久郎を追いかけた。
先を行く夫を追い抜いた新妻がどんどん差を広げていく。
「おいおい、旅立ちの日から夫婦げんかは勘弁してくれ」
くるりと振り向いた千紗が人差し指を立てる。
「では、今度はわたくしから問題を出します」
「いいぞ。算術腕試しだ」
「一刻に一里歩くわたくしと、半刻で一里走る新久郎様では、どちらが先に今日の宿へ着くでしょうか」
「それは私だろう。計算もいらないではないか」
「残念でした。世の中は算術のようにはいきません」と、千紗がかわいらしく舌を出す。「ひょろりひょろりの新久郎様が飛脚のように走り続けられるわけないじゃありませんか。一里塚でへばって蛙みたいにひっくり返ってますよ」
「ふむ、なるほど、それもそうだな」と、新久郎が笑い出す。「ああ、愉快、愉快」
「ここ、笑うところですか」
と、呆れる千紗の手を新久郎がつかむ。
「こうしておれば、二人一緒に着くであろう」
「もう、新久郎様ったら」
菜の花畑をつらぬく街道に、寄り添う二人の影が少しずつ少しずつ小さくなっていく。
笑い声も遠ざかっていく。
江戸まで百十六里。
夫婦二人三脚の旅。
まだ見ぬ新しい算術の世界に向かって、二人の足取りは軽やかだった。