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 祭りが終わった翌日、千紗は天神様に姿を見せなかった。
 たまたま何か用事でもできたのかと、新久郎は一人で算術の本を眺めてすごしていた。
 次の日も来てみたが、やはり千紗はいなかった。
 どうしたのかと、新久郎は大黒町の長屋を訪ねてみることにした。
 柳並木がゆらりと揺らぐ川端を歩き、荷揚げ用の桟橋を通り過ぎたところが大黒町だ。
 長屋の並ぶぬかるんだ狭い路地に入ると、井戸端で洗い物をしている女房連中がいた。
「大工の惣兵衛殿はどちらかな。千紗という娘がいるんだが」
「惣兵衛さんなら、あそこだよ」と、赤子を背負った女が長屋の一番奥を指す。
「そうか。ありがとう」
 教えられた長屋に歩み寄って声をかけようとした時、ちょうど中から旦那が現れた。
「あ、惣兵衛殿」
 名を呼ばれた相手は、ひょろりと背の高い若侍を怪訝そうに見上げて目をしばたいた。
「これは、小田崎様の若様……」
「千紗殿はおるかな」
 惣兵衛は腕組みをして黙り込んだまま返事をしない。
 女房連中が洗い物の手を止めてこちらを見ている。
「ちょっと、すみませんが」と、惣兵衛が川の方に目をやる。
 新久郎は黙ってついていった。
 橋のたもとで立ち止まると、いきなり惣兵衛が頭を下げた。
「若様、お願いですから、こんなところへは二度と来ないで下さいよ。うちの娘とも会わないでおくんなさい」
「なにゆえだ」と、尋ねる新久郎だが、理由はもちろん自分が一番よく分かっていた。
 惣兵衛の返答も聞く前から分かっている。
「違いすぎるんですよ」と、惣兵衛はため息をついた。「うちの娘には似合わねえこと。御家老様の御曹司ともあればなおさらでございます」
「しかし、私は……」
「お願いでございます」と、惣兵衛が首を振る。「娘の気持ちをもてあそばねえでおくんなさい」
「惣兵衛殿、頭を上げてくだされ。私は決してそのような……」
 惣兵衛は手を突き出してさえぎった。
「若様が本気なのは分かります」と、奥歯を噛みしめながら首を振る。「娘があんな女の顔を見せたのは初めてですよ。娘をそんな気持ちにさせたんですから、若様も本気なんでございましょう」
「ああ、そうだ」と、新久郎は詰め寄った。「私の心に嘘偽りはない。本気なのだ」