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夏も盛りを過ぎた頃、天神様でお祭りがあった。
千紗は祭りが好きではない。
人混みは落ち着かないし、踊りも苦手だ。
これまでは祭りの時は家に引きこもっていたのだが、今日あえて来てみたのは、他でもない新久郎に会うためだった。
とはいえ、やはり、人出が多くて正直なところ気が重い。
歓声を上げて駆け抜けていく子供達の横を、錘をつながれたような足取りで鳥居をくぐる。
音曲を奏でる者、滑稽なかぶり物をして踊る人々、餅や菓子を売る出店もあれば、小間物を並べた行商人もいる。
賑やかな人出と陽気なお囃子に乗せられてみなの気分が浮ついているのに、千紗は気分が悪くなって社殿の脇にしゃがみこんでしまった。
額から冷たい汗が流れ落ちる。
やっぱりよしておけば良かったか。
小さい頃に来た時もこうだったのだ。
人と同じものを見て、人と同じことをして、同じことをみんなと同時に笑う。
そんな単純なことが自分にはできない。
だから仲の良い遊び相手もいなかったし、お祭りに誘われることもなかった。
周りの人は学問とは無縁で、算術の話などできるわけもないし、むしろ、ただの変わり者と馬鹿にされていた。
そんな千紗にとって、新久郎は初めて出会った話し相手だった。
人と話すのが楽しいと思ったのは生まれて初めてだった。
算術の話をして気の合う相手がいるなんて、想像もしてみなかった。
新久郎のことを想うと、胸が高鳴る。
だがそれは、さっきのような不安な動悸とは違って、なんとも言えないむずがゆい気分なのだった。
しかし、一方で、千紗は現実を知っていた。
しょせん、武士と町人の娘。
混じり合うことのない身分。
一緒にいられるのも、あとわずかだろう。
跡取りである新久郎には武家の縁談があるだろうし、千紗は大工の棟梁の娘として、婿を取らなければならない。
新久郎は千紗の才能を認めてくれている。
だからといって、いつまでもこうしているわけにもいかないのだ。
新久郎の気持ちに嘘偽りがないことは千紗も信じている。
だからこそ、一緒に江戸へ行こうと誘われたことがかえって重荷になっていた。
それはつまり、夫婦になるということ。
だが、それは叶わぬ夢なのだ。
新久郎が誠実になろうとしてくれるほど、嘘をつかせることになる。
江戸へ行く夢を語ってくれる彼が見せる情熱が熱ければ熱いほど、千紗の胸の奥が冷えていくのだった。
――新久郎様。
心の中で名を呼ぶたびに苦しくなる。
千紗はしばらく胸を押さえたまま人混みに背を向けてうずくまっていた。