山犬の岩場はその名の通り、大昔から山犬の棲家とされている場所。人の身で登ることは容易ではない過酷な環境です。
大の大人でも困難な岩場を、わたしのような、体の小さな子どもが順当に歩けようはずもない。そのため仁雷さまと義嵐さまは、岩場を大きく迂回して、森の中の比較的なだらかな獣道を先導してくださいました。
「獣道」と言っても、わたしには「道」がどこなのかは分かりません。
大きな足で草を踏み締め進む義嵐さま。その後ろを歩き、時折わたしのほうを振り返って様子を確認する仁雷さま。わたしは最後尾で、慣れない獣道に苦戦しながら進んでいきます。
お天道さまは、まだ頭上を過ぎたあたり。
慣れない道はどうしてもわたしの体力を奪います。お二人はゆっくり足を進めてくださっているけれど、だんだんとわたしとの距離が広がっていきました。
「……はぁ、…ふぅ…。」
一旦立ち止まり、息を整えます。
それにいち早く気づいたのは仁雷さまでした。
鬱蒼と茂る草むらを物ともせずに、わたしのそばまで歩み寄り、少し腰をかがめて顔色を伺います。
「早苗さん、疲れたか?」
「…はぁ、はぁ………す、すみません。少しだけ。」
女中仕事で体力には自信があったために、森の過酷さを甘く考えていました。よく反省しなければいけません。
本当は少しだけ休みたいけれど…。
「……も、もう平気です。参りましょう。」
「………。」
歩みを進めようとするわたしの肩を、仁雷さまの手がそっと止めました。
「……あ、あの…?」
「…獣道はまだしばらく続く。俺の肩に手を乗せて。」
言葉の意図が分かりませんでした。
けれど促されるままに、仁雷さまの肩に手を乗せてみます。
すると、体がふわりと浮き上がりました。
仁雷さまがわたしの体を軽々と抱き上げたのです。ちょうど、小さな犬か猫を抱くように。
「ひゃっ!」
地面が急に遠のいて、わたしは思わず仁雷さまの芒色の頭にしがみつきました。
仁雷さまが一瞬体を強張らせます。
「…あ、も、申し訳ありません…っ!」
「………イヤ、いい。
獣道を抜ける間だけ我慢していてくれれば。」
“殿方に抱え上げられる”なんて生まれて初めてのことに焦りながらも、疲れた足がちょっと楽になれたものだから、
「……あ、ありがとうございます…。
すみません…、お、重かったら放ってらして…。」
お言葉に甘えて、少しの間だけ運んでいただこうと思いました。
「………べつに、おもくはない。」
そうぶっきらぼうに言う仁雷さまのほうが、なぜだか少し気恥ずかしそうに、ぎこちなくしてらっしゃいました。
ーーーわたしに気を遣ってくださってる。優しい方なのかも…。
「ハハッ、仁雷、限界がきたら早めに言えよ。おれが代わってやるから。」
「…黙って前を歩け。」
仁雷さまに抱え上げられてしばらくの間は、皆無言で森を進んでいました。
そんな中沈黙を破ったのは、仁雷さまの低い声でした。
「……さ、早苗さん、さっきは…。」
「え?さっき…?」
心なしか怒っているような雰囲気です…。
「山堂で。玉を拾ってくれただろ…。」
山堂、玉。その単語を聞いた時、わたしは苦い光景を思い出しました。
仁雷さまから勢いよく、玉を掬い上げられてしまった光景です。
「あ…その、大切な物なのに、気安く触ってしまって…申し訳ありません…。」
「…イヤ!俺の方こそ、良くない態度だった。本当に、すまなかった…。」
「!」
わたしはやっと気付きます。
仁雷さまの声は低いままで、初めこそ怒っているのかしら…と心配になったけれど、どうやらさっきまでの彼は“自身の対応”に対して怒っているようでした。
「…じ、仁雷さま。わたしを怒らないのですか?」
「え? …怒るも何も、貴女は悪くない。
むしろ大切な物を拾ってくれて、ありがとう。」
「…っ。」
お礼を言われるなんて、わたしにとっては星見さま以外、なかなか無い経験でした。
むず痒い照れ臭さと、勝手に“怒られているのかも”と身構えてしまった自分の矮小さに、わたしはその場ですっかり大人しくなってしまいました。同時に、
ーーー仁雷さま…は、本当は優しい方なのだわ…。
今なおわたしを抱えて淡々と歩いてくださる。仁雷さまとは、一体どんな方なのかしら…。
そんな興味を向けずにはいられなかったのでした。