微動だにしない仁雷さまをそのままに、義嵐さまは懐から一本の巻物を取り出します。
群青色の古い巻物。紐を解いて広げれば、それはどうやら絵巻物のようでした。

上から全体像を見て、わたしはあることに気付きます。

「…これは…狗神さまのお山でしょうか?」

絵の中心には人の集落。その周りには、平野(へいや)、岩場、瓢箪の形の泉、それらを囲む山々。
それは、犬居家が移り住み繁栄した、狗神さまの守る土地そのものでした。

わたしが絵を見るのに夢中になっていると、体が動くようになった仁雷さまが、わたしから少し離れて…義嵐さまの隣へ座り込みました。

絵巻物に目を落とし、義嵐さまに代わり語り部を務めます。

「…今俺達がいるのが、犬居屋敷から北へ行ったここ。山犬の岩場だ。
そしてこれから………さ、さな…、」

「………さな?」

「……………さ、早苗、さんが、向かうのは、ここよりさらに離れた場所……。」

少し動きをぎこちなくさせ、仁雷さまはまず、犬居屋敷の東…竹林の深い場所を指差します。

雉子(きぎす)竹藪(たけやぶ)。」

続いて、今度は南にある、瓢箪の形をした池を指差します。

狒々(ひひ)池泉(ちせん)。」

続いて、西の平野の中に描かれた…ひとつの神社を指差します。

大狗祭(おおいぬまつ)り。…この三箇所だ。
それぞれに宝が収められている。…早苗さん自ら各地を巡礼し、その宝を受け取ってもらいたい。」

仁雷さまは言い切ると、鋭い眼光でわたしの目を見据えます。
今度は逸らす様子は一切ありません。怖いくらい真っ直ぐな視線を受けて、わたしのほうが気圧されてしまいそう。

「……その、宝とは、どんなものなのですか?」

たまらず、少し視線を下にずらして、わたしは訊ねました。

「今はまだ言えない。
早苗さん自らの脚で訪れ、早苗さん自らの力で得ることに意味があるからだ。」

「…………。」

得られなければ「資格が無い」と見なされ、死が待つほどの宝。
一体どんなものなのかしら…。

恐怖心は確かにあるものの、秘密にされると正体が気になってしまうのは、人の悲しい(さが)なのでしょうか。
わたしは喉の奥から声を絞り出しました。

「…わかりました。巡礼に、まいります。」

答えなど選べようはずもないのに。

それでも、わたしの答えを心待ちにしていたかのように、仁雷さまはグッと身を乗り出します。今度はわたしのほうが体を硬くする番となりました。

「っ!」

「早苗さん、これだけは信じていて。
俺達は“何があっても貴女を護る”。
貴女を狗神へ献げるまで。何があっても。」

護る。そう強く口にした仁雷さまの琥珀色の目は、山犬の姿に戻ったのかと錯覚してしまうほど力強いものでした。

生贄の娘は死んでしまう運命なのに、なぜそんなにも頼もしい目を向けるのでしょう。

死を覚悟したはずなのに、決意がぐらぐらと揺らいでしまいそう。

「……は、はい…。
よろしくお願いいたします…。」

深く頭を下げます。
屋敷の者以外と話す機会の無かったわたしは、こんな時どのように接すればいいのか、正解が分かりませんでした。

大きな不安はあるものの、お使いを名乗るこのお二人は、わたしを取って喰う気はないよう。それが分かって、ほんの少しだけ恐怖が和らいだのでした。


「さて、じゃあ日の高いうちに出発するか。雉子の竹藪へは岩場を迂回するから、早苗さんの足で丸二日かかるかな。」

義嵐さまは巻物をくるくると巻いて、懐に仕舞います。
わたしは頭の中で、先ほど見た絵を思い起こし、東のほうの深い山…そこに棲んでいるかもしれない(きじ)の姿を思い浮かべます。
屋敷の外のさらに東。遠いのでしょうね…。

「あの、わたし、旅支度を何も…。」

食料に財布に…。“巡礼”というものをしたことはないけれど、揃えなければいけないものはたくさんあるはず。けれどお二人は、とても落ち着いた様子です。

「必要な物があれば俺達に言ってくれ。早苗さんはその身一つでいい。」

「食料なんかは、道中なんとでもなるしなぁ〜。」

義嵐さまはうっとりと舌なめずりをしています。
一瞬、食料とは“わたし”のことを言っているのではないかと身構えましたが、「野うさぎに、鮎に…」と山の味を思い出していらっしゃる様子なので安堵しました。


仁雷さまはお堂の出入口のほうへ歩き、両手で観音開きの戸を開け放ちました。

昼の柔らかな光を感じることができます。
その中に立つ仁雷さまはこちらを振り返ると、

「さあおいで、早苗さん。」

ほんの少しだけ優しげな声で言いました。