「…………へ………?」
突然のことに、あまりに素っ頓狂な声を漏らしてしまいました。
自分の耳を疑います。何か今、とんでもない聞き違いをしたみたいで。
「…え…ご冗談、ですか……?」
困惑して訊ねますが、仁雷さまのお顔に冗談の色は微塵もありません。
小さい子どもに言い聞かせるように、ゆっくり教えてくださいます。
「本当だよ。
早苗さんが巡礼を達成した時点で、それは決まっていた。
あちらに鎮座している山犬は確かに狗神だが、此度の“祝言”をもって、代を替わる。
俺が、次の狗神を襲名するんだ。」
仁雷さまの言葉は、さらにわたしを困惑させました。
だって、何もかも初耳なのですもの。
その困惑はわたしだけでなく、その場に集まっていた山犬達にも伝染していました。
狼狽の声が左右から雪崩のように巻き起こる…。そんな中でも、仁雷さまの声はハッキリと耳に届くのです。
「……し、祝言…?どなた、の……?」
「早苗さんと、俺の祝言だよ。」
わたしはとうとう、素っ頓狂な声さえも上げられなくなりました。頭がちっとも追いつかないのです。今聞いた言葉は、今見えている光景は、真実?それとも、狗神様の生霊が見せている夢…?
だって、夢を優に超えているのだもの。
「……え、祝言?でも、わたし…生贄に…。
い、命を捧げるために……。」
わたしは必死に頭を回し、犬居の娘の使命を思い出します。
それは狗神様の生贄となること。その身と、命を捧げること。そう幼い頃から教えられ、皆当たり前のことと認識していました。そう認識してきたはず…。
答えが知りたくて、わたしは仁雷さまのお顔を、穴が開きそうなほど見つめてしまいます。
「…早苗さん。歴代の犬居の娘達は、皆一つの目的のために、狗神に捧げられたんだ。
それは、“狗神の子を産む”ことだ。」
「………い、狗神様の、お子…?」
「そう。つまりは嫁入りのため。
…けれど人の身では、山犬の“多産”には耐えられない。娘達は皆一様に、十年も経たずして亡くなってしまったんだ…。」
わたしはようやく理解します。だから狗神様は、十年毎に娘を欲していたのです。
神様が子孫を望むなんて、わたしは考えたこともありませんでした。ただ漠然と、娘達の命を…文字通り“喰らって”いたのではないかと、そんな無礼な考えが頭を過ぎったことも、一度や二度ではなかったのです。
わたしの顔は、己の大変な思い違いによる後悔で、ひどく歪んだことでしょう。その胸中を、仁雷さまは察してくださいました。
「…早苗さんが怯えるのも無理のないことだよ。人の身からすれば、山犬は恐ろしい。考えなど読めないのが自然だ。
“神”と呼ばれていても、その実、長い年月を経て力を蓄えた“あやかし”に過ぎないのだから。……しかし、」
仁雷さまの握る手に、一層力が込められました。
「これだけは信じて。
狗神も、山犬達も、決して奥方を虐げたりはしなかった。
人の世を追われてしまった彼女達の拠り所になれるよう、山犬族一丸となって、彼女達を護り続けたつもりだ。
…それでも、彼女達の身体を利用した挙句、死なせてしまったことは紛れもない事実。
…そんな理不尽を嫁入りなどとは呼べない。生贄と同義だ。」
あんなに落ち着いて優しげだった仁雷さまのお顔が、苦しげに歪められました。
そのお顔からは、仁雷さまや皆様が、どれほど憐れな娘達を想っていたか。彼女達の死をどれほど悔やんでいるかが、痛いほど伝わってきたのです。
もう話さないで…。そう胸の内で願えども、仁雷さまは己の使命を全うするため、わたしにすべてを打ち明けてくださいました。
「ーーーそんな悲しい風習を辞めさせたくて、俺は狗神と約束をした。
今回の犬居の娘が巡礼を達成したら…その方を初めての奥方として娶り、俺が狗神の名を引き継ぐ。
…生贄の連鎖を断ち切るためとは言え、貴女を危険に巻き込んで、今までずっと黙っていて…ごめん。
…そして、俺を信じて来てくれて、本当にありがとう…。」
優しく微笑むそのお顔は、わたしの知る、本来の仁雷さまのものでした。
ずっと理解の追いつかないままだったわたしの頭が、次第に明瞭に形を持って、
「………わたし、は、」
胸が一杯になって、自然と目から涙が溢れたのです。
「わたしは、生きて良いのですか…?
生きて、仁雷さまの…おそばにいて良いのですか……?」
「…むしろこっちが願い上げるよ。
…早苗さん、どうか、俺と夫婦になってほしい。」
夢なのではと錯覚してしまう。
夢にまで見た仁雷さまのお言葉を断る理由が、一体どこにありましょうか。
わたしは嗚咽混じりの声で、胸一杯の幸福感を抱えて、小さく小さく「はい」と答えたのでした。