帷の向こうは、白色に溢れた、広い広い母屋(もや)でした。
滑らかな白木の板敷きの床。同じ素材の柱が左右対称に、等間隔で並び立っています。頭上に広がる折り上げ天井を見遣れば、白木の梁に縁取られた極彩色の花卉図(かきず)が、華やぎをもって出迎えていました。

母屋を挟んだ左右には板張りの廊下と、それを覆う大きな(ひさし)が広がり、中央の母屋の中へと、薄明かりと澄んだ朝の空気を取り込んでいます。

「………!」

そんな広々とした部屋の左右には、黒、茶、赤…色とりどりの大勢の山犬が()して並び、皆一様に(こうべ)を深く垂れていました。
山犬達は部屋の最奥に鎮座する、彼らの“主神”の言葉を待っているようでした。

わたしは最奥の上段に目を凝らします。

高貴な繧繝縁(うんげんべり)の置き畳の上に、眩い白銀色の毛並みを纏う、大きな大きな山犬が横たわっていたのです。
組んだ前脚の上に頭を預け、両の目を伏せています。背は薄らと苔生(こけむ)し、緑と白の混在する様はまるで大きな岩山のよう。それに、少し骨の浮き立った体もまた、その方が途方もない時間を生きてきたことを物語っていました。

ーーーあの方が、狗神様…。

わたしは息をするのも忘れて、狗神様のお姿に見入っていましたが、やがてその伏せられていた両の目がゆっくりと開かれました。
吸い込まれそうな深い琥珀色の瞳が、立ち尽くすわたしの姿を映します。


【……そなた、早苗か。】


低く穏やかなお声でした。
何度想像したことでしょう。生まれて初めて耳にしたそのお声は、わたしの思い描いた何よりも、優しい響きを湛えていました。

「……はい、狗神様。
犬居 早苗と申します。」

わたしはその場に座り、膝の前で指先を揃え、深くお辞儀をします。
人の姿へと変化した仁雷さまもまた、わたしの隣に歩み寄り、同じように膝をついてお辞儀をされました。

わたし達二人の姿を、広間の左右に控える無数の琥珀の瞳が見張ります。


狗神様は頭をもたげ、仰いました。

【そなたの匂い…確かに、犬居家の血の流るる者。
此度の巡礼、誠に大儀(たいぎ)であった。】

その狗神様のお声は、深く地の底から響くように、わたしの体に刻み込まれる…。
指の一本すら動かせない緊張の中、わたしは言葉の先をじっと待ちます。

【雉、狒々、そして我等が山犬の信頼に足る覚悟…確かめてさせてもらった。
我が生霊の誘惑にも、そなたは屈することなく、我が前に辿り着いた。】

「………。」

その時わたしは、蒔絵の手鏡によって正体を現した、山犬の生霊の姿を思い起こしました。
あれは…そう。白銀色の毛並みと深い色の瞳は、今目の前におられる狗神様な姿そのもの。

ーーーそうか、やはり、そうなのですね…。

母様は、狗神様の手によって…。


【最後に問う。
そなたの心は、変わらず狗神に()るか?】

辺りがしんと静まり返りました。
山犬達は皆耳を澄まし、わたしの返事を待っています。

「……………っ…。」

長い長い沈黙の後、わたしは搾り出すような声で答えました。

「……い、狗神様…わたしは……、
お、お願いがあって……参りました。」

声が、体が震えてしまう。緊張のために、ひどく喉が渇く。
けれど、口を閉ざしては駄目。決して目を逸らさず、畏れ多い狗神様の瞳を真っ向から見つめます。

“行く先”を変えるのは、今を歩く者の務めだと思うから。

「…犬居の娘達を、狗神様の“呪縛”から…解放していただけないでしょうか…。」


わたしの発言を聞いた途端、広間に集まる山犬達の間に、(どよ)めきが起こりました。

低い低い唸り声。批難の意味を持つ鳴き声。
恐れた通り、わたしの願いは山犬達にとって、到底受け入れることが出来ないものでした。

飛びかからんばかりに身を乗り出す山犬達。
しかし彼らを牽制したのは、わたしのそばに座る仁雷さまでした。

【ーーーッ!!】

山犬達の誰よりも低く響く咆哮が、人の姿の仁雷さまから発せられました。
空気がびりびりと震える。そのあまりの迫力に、敵意を剥き出しにしていた山犬達は、逆立っていた毛をすっかり寝かせて、竦み上がってしまいました。それにより、わたしへの批難の声はぴたりと止んだのです。

「………仁雷、さま…。」

「……早苗さん。
貴女は貴女の思うままを言葉にして。」

呆然とするわたしに対して、仁雷さまが静かに言葉の続きを促しました。


【ーーー早苗。何故そう願う?】

狗神様の声が一層低く響き渡りました。
鋭くなった眼光に射抜かれながらも、わたしは勇気を振り絞り、思いの丈を打ち明けます。

懐に収めたお守袋を、両手でぎゅっと握って…。

「……わ、わたし達、犬居家は…長きにわたり、狗神様の息づくこの土地で、狗神様のご加護を受け、お家を繁栄させて参りました…。

……ですが犬居家は、狗神様に依存することでしか、生きる道を知らないのです…。
体を病魔に冒されながら、いつしか己の足で立つことも出来なくなり、狗神様の捧げ物として形ばかりの家族を増やし、赤ん坊は名を与えるよりも先に、“血の濃さ”を喜ばれる…。」

一度口をついて出た言葉は止まりません。淀んでいた口調はわたしの思いに比例して明瞭になっていきました。

本家の子と、妾の子。
そこに、血の濃さ以外に何の差があるというのでしょう。

「そんなものは…真っ当な(せい)などではありません。」

わたしの発言は、不敬も甚だしいものでした。
狗神様を祀り、大切に敬い続けてきたご先祖様への侮辱。
何より、ご先祖様が信じてきた“狗神様”の否定に他なりませんでした。


【そなたの言う、“真っ当な生”とは何だ?】

「…………。」

わたしは、巡礼の最中に胸の奥で目まぐるしく変化していった、感情の波のことを思い起こします。

初めの頃のわたしはこの巡礼を、死にゆく最後の通過儀礼くらいにしか、考えていませんでした。
さほど思い入れの強くなかったお(いえ)のために、過酷な旅を強いられることを悲しみさえした…。

…けれど、多くの方の考えに、温かさに触れる中で、

「…わたしはこの巡礼の旅で、ようやく…ようやっと、人らしい生き方を知れた気がいたします。

生きる為に食べること…死にたくないと願うこと、誰かのために怒ること…誰かを心から愛すること…。
死の結末が分かっている旅だとしても、これほど心豊かな経験は、生まれて初めてだったのです。」

狗神様の聖地を巡る旅。それは同時に、歴代の犬居の娘達の軌跡を辿る旅でもありました。

母様が命を賭してわたしを生かしてくださった…。その想いが今ようやく、わたしにも理解できる。

わたしは仁雷さまに目を向けます。
彼もまた、落ち着いた眼差しを向けてくださいます。それだけで、わたしの心はとても軽くなるのです。

「人身御供に怯えることのない日々。
野山を駆け回り、心の赴くままに生きていける日々。
血ではなく、名で呼び合える日々…。

そんな未来を、わたしの後に残された娘達には、与えていただきたいのです。」

それはわたしの、一世一代の我が儘でした。

なんと手前勝手な申し出でしょう。
しかし不思議と、体から緊張は消えていました。山の沢のせせらぎのように、わたしの心は穏やかなものでした。

【…後世の者達の自由の為に、そなた一人の命で(あがな)うと。

そなたの我が儘一つで、連綿と繰り返されてきた風習を覆せると思うのか?

ーーー狗神が聞き入れると思うのか?】

狗神様の目がゆっくり細められます。
けれど、わたしの中にもう恐れはありませんでした。


「聞き入れていただけるまで…わたしは何度でも乞い願います。」


だって、わたし自身が決めた役目を全うせずに死んでしまったら…命を懸けてくださった母様に、顔向けが出来ませんもの。


時が止まったように、御殿は静寂に支配されました。
見つめ合う狗神様とわたし。唸り声どころか身動き一つせず、言葉の先を見守る無数の山犬達。

「……………。」

そんな中、唯一静寂を切り裂く者が()りました。

「ーーーお(やかた)様。
俺からも、お願いがあります。」

それは、わたしの隣の仁雷さま。
少しの躊躇もない堂々としたお姿は、とても美しいと感じます。

仁雷さまは狗神様の目を真っ直ぐ見つめながら、ご自身の指先で、ご自身の“首”に触れました。そこには初めてお会いした時から、首輪のような黒い刺青が刻み込まれています。

「どうか、俺に掛けられた“封言(ふうごん)の呪い”を解いていただけないでしょうか。」

仁雷さまの口調は落ち着いていますが、その芯には揺るがぬ決意のようなものが宿っていました。

狗神様は口を閉ざしていましたが、やがて、

【…話の決着は、そなたの役目のようだ。仁雷。】

深い深い溜め息を吐かれました。
その呼吸は風となり、仁雷さまの体を撫でます。そうして、首の刺青模様を優しく消し去っていきました。

首輪の解けた仁雷さまはわたしの方に向き直り、わたしの手を取って、その場に立ち上がらせます。

仁雷さまの手に力が込められます。
どきどきしてしまいそうな熱い視線で、真剣そのものの面持ちで、わたしに仰ったのです。


「早苗さん。ーーー俺が“狗神”なんだ。」