行手を見上げれば、途方もない長さの階段と、千本鳥居が続く道。
この長い長い階段を登らなければ。登って、狗神様にお目通りしなければ。

「…っ。」

脚をふらつかせながら、わたしは何とか立ち上がろうとします。
その危なっかしさを見兼ねて、仁雷さまが手を貸して下さいます。

「早苗さん、歩ける?」

「はい…っ。もう、落ち着きました……。」

「そうか。」

彼はわたしの手を引き、体を支え、この先に待つ狗神御殿へと歩み始めました。
前だけを見据える彼とは対照的に、わたしは足下に目を向けます。一段一段を踏み締める、自分の小さな足と、彼の力強い足とを見比べます。

肩を並べて、足並みを揃えて歩いて行く。そんな未来を、知らず知らずのうちにわたしは夢見ていたのね。それに気付かせてくれたことだけは、あの生霊という存在に感謝しなくてはいけないわ…。

永遠に感じられる時間の中で、ふと、石段が無くなったことに気付きました。
頂上に辿り着いたのです。

「早苗さん、あれをご覧。」

「え……?」

顔を上げたわたしの目に映ったのは、

「……わ、ぁ………っ!」

思わず声を漏らしてしまうほどの光景でした。

ここは山の上のはず。そんなことが有り得るのでしょうか。
千本鳥居を超えた先には、見渡す限りの広大な湖がありました。その湖上には、真っ白な朝の空に溶けてしまいそうな、純白の柱が連なる“本殿”が建っていたのです。
大きな切妻(きりつま)屋根の緩やかな傾斜が、左右対称に伸びています。
澄んだ水面が本殿全体を鏡のように反射し、浮世離れした荘厳さ、溜め息の出そうな神々しさを放っています。無意識に、その場で手を合わせて祈りを捧げてしまうのです…。

「あれが狗神の御座(おわ)す聖域。
狗神御殿(いぬがみごてん)だ。」

「…狗神様の、住まう場所…。」

一層の畏怖を纏う狗神御殿。
そこへ通ずる道は無く、行手は湖に阻まれています。

仁雷さまはわたしの手を離すと、体を大きく震わせて、瞬く間に元の芒色の山犬の姿となりました。

【早苗さん、俺の背に。】

「はい…。」

わたしは履き物をすべてその場に脱ぎ、それから躊躇いがちに芒色の毛並みに触れ、その広く大きな背に体を預けました。
池泉の試練で、一晩中この背に乗って山を走り抜けたのが、もう大昔のよう。

これが最後かもしれない。

わたしは仁雷さまの、柔らかな毛の感触を、その美しい姿を忘れないよう、心にしっかりと刻み付けます。

「どうか、わたしをお連れくださいませ…。」

【ああ…。】

わたしを背に乗せると、仁雷さまは躊躇うことなく、湖に体を沈めていきます。
脚が、尾が、胴体が水に浸かったかと思えば、大きな体は驚くほど、ふうわりと水に浮くことが出来ました。
背中の天辺にしがみ付くわたしは水に濡れることはなく、仁雷さまはそのまま前脚と後ろ脚で、緩やかに水を掻いて進みます。

背後に遠のいていく岸。そして前方に近づく美しい本殿。
その趣は大昔から現存する遺跡のようでも、はたまた、遥か未来に存在する構造物のようでもありました。

「……美しい、です…。」

思わず漏れてしまう溜め息。

やがて仁雷さまは、湖と本殿とを繋ぐ五段ほどの石階段を登り、水から上がります。
体からポタポタと滴る水は、不思議なことに、仁雷さまが体を震わさずとも、次第に乾いていきました。
その光景に、わたしの知る浮世とは異なる時空に足を踏み入れてしまったのかもしれない…と感じました。

仁雷さまの背から降り、素足で本殿の真っ白な床板を踏み締めます。少しの軋む音もありません。
奥を見遣れば、淡い朝焼け色の大きな(とばり)が下ろされています。

「あちらに……?」

小さな声で訊ねると、仁雷さまはゆっくり頷きます。

わたしは祈るように、胸の前で手を強く握り締めます。意を決し、その淡い薄絹の帷へと手を伸ばしました。