仁雷さま、義嵐さまは、山犬の岩場の崖に沿うように建てられた懸造(かけづくり)のお堂を、雨露を(しの)ぐための(ねぐら)としていました。

太く長い丸太の足場に支えられた小ぢんまりとした山堂(さんどう)は、狗神さまの広いお山の中でも特徴的なこの岩場そのものを、御神体として祀っているそうです。
それは恐らく、犬居家に伝わる逸話のひとつ…“狗神さまが豪雨の土砂崩れから犬居の集落を守るため、ご自身が大岩に変化して土砂を食い止めた”というものが、関係していると思われました。

こんな場所があったことさえ知らなかった…。普段、犬居屋敷の外へ出ること自体、ほとんどなかったから。

わたしは板敷きの床のちょうど真ん中辺りに正座して、そっと両手を合わせてみたり、そわそわとお堂内部を眺めていました。
しばしここで待つよう告げたお二人は、お堂の中にはいない。どこへ行ってしまったのかしら…。


しばらくして、やや後ろの床板が、微かに軋む音がしました。
そちらを振り返ると、芒色の髪の仁雷さまがこちらへ歩み寄ってきます。

目が合うと、仁雷さまはまたパッと顔を背けてしまいます。
人見知りと仰っていましたが、本当はあまり、わたしのことを快く思っていらっしゃらないのかもしれません…。

「………これを。」

そう短く言って差し出されたのは、

「………あら……それ……。」

年季の入った若草色の小袖(こそで)と、一足の草鞋(わらじ)でした。


「その格好では移動に不便だ。
これに着替えて。」

その格好…とは、わたしの身につけている儀式用の小袿のこと。確かに裾も袖も長く、おまけに、あんなに真っ白だった生地はすっかり泥だらけです。

「……あ、…ありがとう、ございます。」

仁雷さまから着替え一式を受け取ります。
わたしはじっと若草色の生地を見つめてから、また彼に目をやりました。

…が、琥珀の輝きをとらえる暇もなく、やはり先に目を逸らされてしまいました。

「……俺は外にいる。着替えが済んだら声をかけて。」

言うが早いか、仁雷さまはくるりと踵を返してしまいます。

その時です。かつん、と何かが床に落ちる音がしました。
それは仁雷さまの足元。着物の(たもと)から落ちてしまったのか、小さい玉のような物がコロコロとこちらへ転がって来ます。

「あっ。」

わたしは無意識にそれを拾い上げました。
手の平に乗せてよくよく眺めますと、枇杷の実ほどの大きさのその玉は、お犬のお二人の瞳と同じ、琥珀色の美しい輝きを放っているのが分かりました。素材は、本物の琥珀で出来ているのかしら。

「…綺麗……。」

きっと大切な物だわ。
お返ししようと仁雷さまのお顔を見上げた時でした。

「っ!!」

空を切る音がしたかと思うと、目にも止まらぬ物凄い速さで、仁雷さまに手元の玉を掬い上げられてしまいました。
突然のことに呆気に取られるわたしと、なぜだかお顔を、蒼白と紅潮を混ぜた複雑な色に染めている仁雷さま…。

「………あ、も、申し訳ありません…!」

触れられたくない物だったみたい…。
わたしは居た堪れない思いで、その場で深く頭を下げます。

「……イヤ………。」

そう短く言うと、仁雷さまは足早にお堂の外へ出て行ってしまいました。

「…………。」

やはり、わたしは好かれていないみたい…。

それもその通り。あちらは狗神さまのお言いつけに従っているだけなのですから。生贄の機嫌を取ることはしないでしょう。

…頭では納得できるのだけど、こんな調子で“巡礼”とやらをやり遂げられるのかしら。そう、不安に駆られてしまいます。


ふと、自身の着物の合わせ目に手をやると、星見さまから頂いた小さなお守袋に触れました。
取り出してじっくり眺めれば、星見さまと過ごした日々が思い出されます。
わたしの、大切な…。

「……元気にされてるかしら。」

…感傷に浸り過ぎてしまったようです。
すっかり薄汚れてしまった小袿で目元を拭うと、わたしは気を取り直して、若草色の着物に袖を通します。胸元にちゃんと、お守袋をしまって。

慣れた着物の感触に、緊張していた心が少しだけほぐれたよう。
不思議と、袖も身丈もわたしの体にちょうど合っていて驚きました。


帯がずれていないか手探りで確かめていると…

「……やっ、やぁ〜こいつは驚き!!
早苗さん、よく似合うじゃないか!」

「!!」

すぐ後ろから元気な声が飛んできました。
驚いて振り返れば、いつ戻られたのか、炭色の髪の義嵐さまの姿がありました。

「…あ、えと…仁雷さまがくださったのです……。小袿では不便だろうからと…。」

「そうかぁ、仁雷が!へぇ、良いなぁ!
白も良かったけど、早苗さんくらいの女の子には若草色もなんと馴染むことか!なんて言うか、華やぐなぁ!」

「……っ。」

とっても、褒めてくださってる…。

お世辞かもしれないのに、褒められ慣れていないわたしは無性に気恥ずかしくなってしまって、鯉みたいに口をパクパクさせるばかり。

そんな状況を鎮めてくださったのは、後からお堂に戻られた仁雷さまでした。


「…おい義嵐、邪魔をしてないだろうな?
早苗さんの準備が出来次第すぐ出発を………、」

視線を義嵐さまからわたしへ移された瞬間、仁雷さまは雷に撃たれたかのように、その場にて動かなくなってしまったのです。

「……え?あ、あの、なにか…?」

「気にしなさんな。じきに動き出すさ。」