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夜が明け、太陽がぼんやりと山の端に姿を現し始めます。
仁雷さま、義嵐さま、そしてわたしの三人は、旅支度を整えると、塒の入口にて皆様の見送りを受けました。

「あけび様。着物を綺麗にしていただいて、ありがとうございます。」

わたしが纏っていた着物の泥汚れはすっかり洗い流され、元の若草色が綺麗に現れています。
お猿様達がどれほど丁寧に手を尽くしてくださったかが見て取れ、感謝してもしきれませんでした。

【勿体無いお言葉…。早苗様にはもっと長く、ここに留まっていただきとうございました。】

「あけび様に、皆様に会えて、嬉しうございました。どうかお体に気を付けて…。」

あけび様から差し出された前足を両手で握ります。わたしはその感触と温かさを忘れないよう、胸に刻み込むのでした。


「では、狒々王。またいずれ。」

仁雷さまの言葉に、狒々王様が穏やかな口調で答えます。

「左様ならば。仁雷殿。義嵐殿。…そして、早苗殿。
また(いず)れ、この池泉にてお待ち申し上げる…。」

優美な身のこなしで、深々とお辞儀をされました。指先から着物の裾に至るまでのしなやかな所作に、惚れ惚れしてしまいます。

礼儀として、わたしもまたお辞儀を返しました。けれど内心では、“わたしはもうこの場に立つことは無いけれど”…と考えてしまいます。
それを口にするのはきっと野暮なこと。池泉の皆様の笑顔を目に焼き付け、わたし達は次の巡礼地へと向かうのです。

西の平野(へいや)大狗祭(おおいぬまつ)りへ。


「祭り…。」

秋に行われる祭りといえば、豊穣のお祝いでしょうか。
犬居家でも「例大祭(れいたいさい)」として、一年の実りに感謝を捧げる祭りを執り行います。
そういえば…もうすぐ例大祭の日だわ。

わたしは毎年、犬居の娘としてではなく、女中の一人として祭りのお手伝いをしてきた身です。馴染み深い祭りにもう参加出来ない。そのことに、ほんの少しだけ寂しさを覚えてしまいます。

「ーーー早苗さん、大狗祭りはこれまでのような危険な試練ではないから、あまり気負わないで。」

「…仁雷さま……。」

仁雷さまがわたしを安心させようと、声を掛けてくださいます。
不安の理由はそれではないのですけれど、こうして気遣ってくださるのは、優しい仁雷さまらしい…。

わたしに向けられる穏やかな瞳。
…ですがなぜでしょう。その瞳に見つめられると、わたし、わたし…、

「っ!」

体が勝手に、外方(そっぽ)を向いてしまうのです。

「えっ……さ、早苗さん……?」

背後から、仁雷さまの悲痛なお声が聞こえます。
けれど、わたしはそちらに向き直ることが出来ません。心の中で何度も何度も「申し訳ありません」と謝っても、言葉が口から出て来ないのは非常に厄介でした。

ーーーわたし、やっぱりどうかしているわ…。どんな顔で仁雷さまとお話ししたらいいのか、分からない…。

外方を向いた先に立つ義嵐さまも、目を丸くされています。
わたしの様子がおかしいことを、不思議に思われているのは明白でした。

「……ぎ、義嵐さま…っ!
大狗祭りの場所まで、ここからどれほどかかるのでしょう…?」

努めて平静を装いますが、声は震えて不自然極まりない。
わたしを見下ろす義嵐さまの顔が、ふいに、何かを察したような納得の表情に変わりました。

「早苗さんの足で丸二日ほど。小山をいくつか越えれば平野はすぐだ。
今回は“仁雷が先導”して、おれがきみの身を護ろうかな。」

「ぎ、義嵐!?なんで………っ!」

そのご提案はわたしにとってありがたいものでした。
仁雷さまに先導していただければ、お顔を見てまた逸らしてしまわずに済みますもの…。

「お、お願いします!義嵐さま!」

「早苗さんっ!?」

仁雷さまは気を悪くしてしまうかしら…。
いいえ、本来ならばお喋りなどせずに淡々と歩くことが望ましいのだわ。あけび様との散策で、わたしは少し山の歩き方に慣れたのです。お荷物にはなりません。決して。

「じ、仁雷さま…。ご案内、どうぞよろしくお願いいたします…!」

気持ちを込めて、仁雷さまに対して深々と頭を下げます。その際も、なるべくお顔を見ないように…。
仁雷さまは何か言いたげに声を詰まらせますが…

「…あ、ウン…行こうか……。」

何も言及せず、わたしを先導してくださいました。

ーーー申し訳ありません、申し訳ありません…。仁雷さま…。

謝らないでと言っていただいたばかりなのに、わたしの胸の内は申し訳なさで一杯なのでした…。