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その日、わたし達は狒々王様の塒にて、お猿達によって、手厚いおもてなしを受けました。
湯浴みと、傷の手当てと、そして食べきれないほどのご馳走をいただき、最後の試練への英気を養いました。
そんなわたしの手中には、ふたつの宝物があります。
決意を守るという、螺鈿の懐剣。
そして、“真実を映す”という、蒔絵の手鏡。
真実とは…どういう意味なのかしら。
その夜、宴の熱を冷ますため、わたしは一人寝巻き姿で、静かな縁側に出ていました。
目の前に広がる池泉は、水面に銀の満月を映し出しています。
義嵐さまは、大好きなお酒を心ゆくまで堪能している頃。
仁雷さまは、わたしに付き添うと申し出てくださったけれど、お疲れでしょうからとお断りしました。それに少し、一人で考え事をしたかったから…。今頃は用意された寝床で、ゆっくり休まれている頃かしら。
わたしは縁側に一人座り、手にした鏡を覗きます。映るのは見慣れた自分の顔。
けれど少し、今までよりほんの少し、自信を得た顔になったかもしれない。義嵐さまのお褒めと、仁雷さまの掛けてくださったたくさんの言葉のおかげ…。
『俺は、早苗さんのために傷付きたい。』
「…………。」
わたしの体はどこか悪いのかしら。
だってもうずっと、仁雷さまのことを考えるだけで…心臓がどきどきして仕方ない。
この異常の正体が分からないものかと鏡をまた覗きますが、そこに映るのは相変わらず、顔を朱に染める自分自身だけなのでした。
「…いけないわ、もし病などだったら…。
だってわたしは狗神様の……。」
その時、わたしはふと気付きます。
もしわたしが狗神様の生贄に捧げられたら。命を落としたら。
もう二度と、
ーーー仁雷さまに、会えなくなる…。
分かりきっていたことのはず。それなのに、この局面でようやく実感したのです。
わたしが池泉の試練に挑む時、心を占めていたのは狗神様への信仰ではなく、
「これ、って………。」
気付いてしまった。
わたしは、仁雷さまと離れたくない。
その時のわたしの動揺は、とても言葉では言い表せませんでした。
狗神様の生贄の身なのに、狗神様の…それもお使い様にこんな執着心を抱くなんて、とんでもないことです。
気のせいであると思いたい。でも、仁雷さまの姿を、いただいた言葉の数々を、あの綺麗な眼差しを思い出すほど、わたしの胸は締め付けられていく。
命が、惜しくなっていくのです。
「……どう、しよう……。」
次が最後の試練。
それを乗り越えれば、わたしは狗神様の元へ行く。
…けれど、本当にこんな気持ちで臨むべきなのかしら。
わたしは視界を手で覆い隠し、両天秤にかけられた信心と思慕とを必死に見つめ直します。…それでも、どちらもわたしには同じくらい大切な想い。決着がつくはずはありませんでした。