その場の空気を変えたのは、義嵐さまの明るい声でした。

「じゃあ、これで池泉の試練は終わりか!
いやぁ骨が折れたな!これまでの巡礼で一番手こずらされたな!」

「…義嵐が一番無事だがな。」
「……お、お怪我が無いのは何よりです。」

わたしも仁雷さまも体から一気に力が抜けて、その場にへたり込んでしまいます。
夢中で忘れていたけれど、体の疲労感と、たくさんの小さな傷の痛みを徐々に自覚してきて、わたしはその場から一歩も立ち上がれなくなってしまったのです。

そんなわたしの頭を、義嵐さまがポンポンと軽く叩いて、優しい口調で言ってくださいます。

「早苗さん、本当によく頑張ったね。おれは鼻が高いよ。」

「義嵐さま………。」

まるでお父様のような口ぶりに、わたしは無性に気恥ずかしくなってしまいました。
本当の父上…玄幽様に褒められたことは無いけれど、親に褒められるのって、きっとこんな風に胸が温かくなるのだわ…。

そんな義嵐さまとわたしの様子を、仁雷さまがなぜか複雑そうな目で見ていることに気付きました。義嵐さまが楽しそうに声を掛けます。

「どうした仁雷?ヤキモチか?」

「……イヤ、そういうわけでは…。」

フイと顔を背けてしまった仁雷さま。
わたしはそちらへ体を向け、仁雷さまの頬を手で包み込みます。

「ッ!?」

「…やっぱり、とても痛そう……。」

仁雷さまの牙の根は、咬合の負担によって血が滲んで、赤黒くなってしまっていました。
わたしがもっと機転の利いた振る舞いが出来ていたなら、仁雷さまをこんな目に遭わせることも無かったかもしれないのに…。

「ごめんなさい、仁雷さま…。わたしが頼りないあまりに、ご無理ばっかりさせて…。」

謝って済むようなことではないのに。自分の不甲斐無さに打ちのめされてしまう。
血に濡れた頬に添えたわたしの手を、今度は仁雷さまが、力強く握り返しました。

「どうして早苗さんの所為(せい)になるんだ…!?」

「えっ…!」

仁雷さまの口調はいつもの優しげなものではなく、少しだけ語気が強まったものでした。わたしは思わず姿勢を正します。

「貴女はもう充分すぎるほどの荷を背負っているんだ。そんなに自分を(ないがし)ろにしてはいけない…!」

「……は、はい…。申し訳…、」

お叱りを受けている…と思いきや、仁雷さまは子どもに言い聞かせるように、声を落ち着けて語りかけてくださいます。

「…どうか謝らないで、早苗さん。
貴女は自分に誇りを持って良いんだ。俺は、貴女の行い全てを喜んで受け入れるから。

俺は、早苗さんのために傷付きたい。」

仁雷さまの言葉は、熱が込められていました。
琥珀色の瞳は逸らすことなくわたし一人を見つめている…。心の奥深くまでを見透かされてしまいそうな、不思議で甘い感覚に、わたしはとても平静ではいられなかったのです。

「……は、はい。そう、ですね…っ。
うん…っ。あ、ありが………っ。」

口が上手く回らない。顔も、握られた手も熱くて、仕方がない。恥ずかしくて離してほしいのに、ずっとこうしていたいという二極の感情が湧き上がる。
どうしたのかしら。わたし、妙だわ。


「早苗さん、仁雷。二人とも積もる話は後にしてさ、まずは体を休めようじゃないか。」

義嵐さまの大きな手が、仁雷さまとわたしの頭を撫でます。
それでハッと我に返ったわたしは、仁雷さまの視線から逃れるように、足元に目を落としました。
なおも心臓のどきどきは、うるさいくらいに鳴り続けていました。


「では皆の者。緋衣の…いや、儂の塒へ参られよ。食事も、湯も、寝床もある。最後の試練に備え、今度こそ猿達のもてなしを堪能すると良い。」

狒々王様が、瓢箪池を望める緋衣様の塒を指で示し、そう申し出てくださいました。

「湯」の単語を聞いた瞬間、わたしは耳聡(みみざと)く反応を示してしまいます。
体の汚れとにおいは、ひどく気になるものですから、今のわたしにとって湯は喉から手が出るほどに欲しかった物なのです。

狒々王様は傍らに控えていた柿様を見下ろします。

「柿。支度を頼めるな?」

【はい…っ、狒々王様のお言い付けなれば、何なりと…!】

柿様の嬉しそうなお顔。
それとは対照的に、そばに控えるあけび様は、どこか居づらそうに肩を小さくしています。そんな様子を見た狒々王様は…

「あけびも、柿の手伝いを頼む。」

【!】

狒々王様の優しい(めい)を受け、あけび様の目は、生の炎が宿ったように輝きました。

【はい!…はい、狒々王様…!】

きっと、あけび様は十年の時を経て、ようやっと報われたのだわ。そんな気がするのです。