正式に、わたしが狗神さまの生贄に選ばれたとの知らせを受けたのは、星見さまと抱擁を交わした翌日でした。
重く張り詰めた胸中とは裏腹に、空は高く澄んだ秋晴れ。
使用人の身から一転、わたしは屋敷中の女中達によって、人生で一番と言って差し支えないくらいに、上等な装いに身を包むこととなりました。
唇には紅を差し、白い小袿と白足袋を纏った、一見お姫さまのような、また一見死人のような姿で、唐桶の中へと納められました。
わたしの身柄は四人の担ぎ手によって、犬居の屋敷から北へ行った先の「山犬の岩場」と呼ばれる岩山まで、大切に運ばれて行きました。
犬居家では、“生贄”とは人生で最も大切に扱われる場面であると言われています。
なぜなら生贄の娘は、狗神さまへの贈り物であり、また狗神さまのご機嫌を取るために無くてはならない存在だったからです。
「ーーー早苗様、我々がお供出来るのはここまでです。」
そう声が聞こえたかと思うと、すぐに担ぎ手達の足音が鳴り出しました。わたしと桶をその場に残し、元来た道を一目散に帰って行く音。
やがてその足音も遠ざかって聞こえなくなると、わたしは閉じられていた桶の蓋をそっと押し開けました。
差し込んできた朝日に目が眩みます。
「……っ。」
恐る恐る桶から顔を出したわたしは、目の前の光景に、思わず息を呑みました。
大きな大きな崖の壁が聳え立っています。
その足元には古びたお社と、それを守る対の狛犬像があるだけ。
このお社は「伏水神社」といいます。山の守り神たる“狗神さま”と、大昔に狗神さまの“最初の生贄となった娘”の魂、その二者を祀る場所と聞いています。
そしてこの場所は、置き去りにされた生贄の娘達が、皆人知れず消息を絶つという不吉な場所でした。
神隠しか、はたまた「山犬」の名の通り皆、獣に食べられてしまったのか…。
いずれにせよ、儀式以外では誰一人として、ここを訪れませんでした。
ふるるっと身震いして、わたしは何かに縋りたい気持ちに襲われました。
幸いそこにはお社があります。大昔に建てられたため、あちこち苔生しているものの、この山で祀る神様は皆同じ。
桶から抜け出たわたしは、恐る恐るお社のほうへ歩み寄ります。
通り際、一対の狛犬達を横目に見ると、どうやら唐獅子ではありません。稲荷神社の狐とも似て非なる、力強い姿。それはどうやら“山犬”のようでした。
ーーー山犬の姿をした狛犬なんて、初めて見たわ…。
狛犬達の鋭い眼光から逃げるように、わたしはお社の前へ。
小さく拍手を打ってから、そっと目を瞑りました。
「…狗神さま、狗神さま。
犬居の娘が、この身を献げに参りました…。
わたしが見えていらっしゃるなら、どうか姿をお見せください…。」
気のせいではないはず。
ずっと感じる、この視線の正体は…。
【ーーー懐かしい匂いがする。“犬居”の娘か。】
わたしはどきりとします。
なぜならその声は、すぐ後ろから聞こえてきたから。
驚いて振り返ると、わたしの視界に飛び込んできたのは、予想だにしない光景でした。
「……や、山犬…!」
さきほどまで狛犬像があったはずの台座の上に一頭ずつ、炭色と芒色の、大人の熊ほどの大きさの“本物の山犬”が、それぞれどっしりと座っていたのです。
状況を見るに、“狛犬像が本物の山犬になった”と考えるのが自然だけれど…自然にそんなことが起こり得るのでしょうか。
しかもわたしの耳が確かなら、今この山犬は、確かに人の言葉を口にした…。
「…ど、どなた、です…?」
わたしの涙声混じりの問いかけに、芒色のほうがフスンと鼻を鳴らしました。
【狗神の供物として貴女の身、確かに貰い受ける。】
低い唸り声混じりにそう言うと、二頭の山犬は台座から舞い降り、わたしのほうへ歩み寄って来ました。
ぎらぎらした琥珀色の目玉が、上から下へわたしを吟味するように動く…。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまったわたしを中心に、山犬達はゆっくりと周囲を練り歩きます。
まさかこの二頭が、かの“狗神さま”…?
「……い、狗神さま…!
わ、わたし、骨張っていて…食べても美味しうございません…!」
怖くてたまらず、わたしは小さく叫びました。
けれど、どうしたことでしょう。
【…“狗神”?
いや、違う違う!おれ達はただのお使いさ。】
意外にも、そう朗らかに笑ったのは、炭色のほうのお犬でした。
【ほーら怖がってる。脅かしちゃ可哀想じゃないか、仁雷は昔から顔が怖いんだから。】
【……う、生まれつきなんだ。それに俺は脅かしてやしない。毎度こうしてるじゃないか。】
わたしの背後で止まった芒色のお犬は、ばつが悪そうに鼻先を逸らします。
炭色のお犬がわたしの正面に差しかかると、そこでぴたりと足を止めて、自前の大きな鼻先を近づけてきました。
思わず身構える…けれど、取って喰おうというのとは少し違っていました。
【娘御殿。お名前は?】
炭色の毛色は本当の熊のようで恐ろしいけれど、その声はとても優しく、人懐っこい響きでした。
「娘御殿」だなんて…。そんな丁寧な呼び方をされた経験がありませんから、少し動揺しながらも、わたしは恐る恐る名を口にします。
「………さ、早苗と、申します。」
【早苗さんね。良い名前だ。
わざわざこんな辺鄙な場所まで運ばれて、ご苦労なこったね。生憎とここからが長いんだけどね。
まあ、おれ達が責任持って巡礼のお供をするから、安心して身を任せなよ。】
「…え、巡礼……?」
聞き慣れない単語に、わたしは思わず怪訝な顔をしてしまいます。
炭色のしっとりと濡れた鼻が、わたしの匂いをしきりに嗅ぎます。言葉を交わすよりも、匂いのほうがわたしの全てを知れると言うように。
戸惑うわたしの問いに答えたのは、相変わらず鼻先を逸らしたままの、芒色の山犬のほうでした。
【狗神に献げるに相応しい娘かを見極めるため、これから三つの巡礼の試練に挑んでもらう。
試練達成の証に、それぞれの聖地で“宝”を持ち帰ること。】
「………え…?」
巡礼の試練…?宝?一体、何の話?
それは十三年間生きてきて、初めて聞く話でした。
生贄として献げられた時点で、命を落とすと思っていたのに…。
まさか、今まで生贄に選ばれた娘達も皆、同じことを…?
「…もし、その宝とやらを持ち帰れなかったら、どうなるのです…?」
声を震わせるわたしに、お犬達は同時に答えます。
【資格のない者は命を落とすだろう。】
「……そんな…。」
そのあまりの理不尽さに、わたしは喉から叫びたい思いでした。
生贄に選ばれた時点で死ぬ運命は決まっているのに、その上、そんな恐ろしい目に遭わなければならないなんて…あんまりです…。
そんな焦りや恐怖も、匂いからお犬達には伝わってしまいます。
【…ああ、やっぱり血筋だね、早苗さん。
前の娘と同じ“恐怖”の匂いがする。
それでいいさ。今は存分に怖がるといい。
だが一頻り怖がったら、おれ達と一緒に来てもらうからね。】
炭色のお犬が、嬉しそうに笑った気がしました。
芒色のお犬は、逸らしていた鼻先をチラッとこちらへ向けただけで、何も言いません。
わたしもわたしで、この二頭の“あやかし”に言い返す勇気も、ましてや逃げ出す勇気などあるはずもなく…。
「………あぁ…狗神さま…。」
おかしなことに、こんな状況になってもなお、幼い頃から信仰してきた狗神さまに縋らずにはいられないのでした。