柿さまの話では、青衣の塒と緋衣さまの塒は、瓢箪池を挟んだ丁度対面に位置しているといいます。
つまりわたし達は、青衣の洞窟から出た後、瓢箪池周辺の獣道をぐるりと迂回して、緋衣さまの塒を目指して歩いている状態。
鬱蒼とした森の中を、柿さまと提灯に導かれるまま進んでいくと、遠くに建物の屋根が見えてきました。

森を抜けた先は、広い広い池泉の(ほとり)でした。
辺りには、青衣の洞窟の中と同じく、民家や長屋や蔵が建ち並び、その中央に、やはり朱塗りの社殿が聳えていました。そして驚くべきは、あらゆる建物が、青衣の塒と鏡合わせのようにそっくりなのです。

「……青衣の洞窟の内部と、よく似ています。町並みも、社殿の造りも…。」

【こちらへどうぞ。緋衣様がお待ちです。】

仁雷さまの肩から下ろしていただき、わたし達は柿さまに導かれるまま、社殿の中へと入っていきます。
これほど似ていると、何かの罠ではと不安が募ります。恐る恐る足を踏み入れた先で待っていたのは、


「…おお!待ち侘びたぞ犬居の娘よ!」

緋色の長い髪に、緋色の打掛(うちかけ)姿の、とても美しい女の人でした。
すらりと背が高く、艶やかな打掛を纏う様は天女のよう。

瓢箪池を背にしてその女性は立ち上がり、わたし達を和やかな笑顔で迎えていました。
心なしか体が上下に小さく揺れています。まるでお友達を前にした子どものような無邪気さです。

「待ち侘びたぞ!儂こそが瓢箪池と南山の主、緋衣(ひごろも)じゃ!
本当に、よくぞここまで辿り着いた!」

社殿の内部は、奥の壁一面がすっかり取り払われており、背後に広がる瓢箪池が一望できるようになっています。生憎(あいにく)と今は夜なので、池泉の全貌は暗くてよく見えません。

緋衣さまは、お猿に向かって何かを命じます。
すると間も無く、何匹ものお猿が列になって、わたし達の前に食事を運んで来るではありませんか。鯛のお造りに、重々しい酒瓶に、器から溢れんばかりの果物…。
呆気に取られて見つめていると、あっという間に山のようなご馳走が、その場に並べられました。

「あ、あの、これは…?」

「そなたらは大切な客人じゃ。これは儂からのほんのもてなし。どうか心ゆくまで楽しんでくれ!」

ご馳走を見つめて、わたしは言葉もありませんでした。
青衣と、緋衣さま。塒の配置は鏡合わせのようにとてもよく似ているのに、両者の性質は全く正反対。青衣は明確な敵意を持っていたけれど、緋衣さまはとてもこちらに友好的なのです。
その厚意が、わたしには逆に不安感となりました。

義嵐さま、仁雷さまはわたしの左右に座っています。何が起きても、いの一番にわたしを護れるようにでしょうか…。

「…緋衣さま。おもてなしをありがとうございます。
ですがまず…巡礼の試練について、教えていただけますか?」

「え?ホホ、ほんにせっかちじゃのう犬居の娘…いや、早苗殿!
まあそなたらが求めているのは、こんな馳走の山ではあるまいよな。」

緋衣さまはおもむろに、首から下げていた装飾品に触れます。その金色の装飾品に、確かに見覚えがありました。

「…あれは…青衣にも…。」

緋衣さまが装飾品をくるりと裏返せば、わたし自身と目が合います。それは金色の円鏡《えんきょう》であることが分かりました。

「…それは、青衣が身につけていたのと同じ物に見えます。なぜお二人が同じ鏡を?」

「ホホホ、美しかろう?
これは儂が生まれた時から身につけておる大切な鏡での!その昔、瓢箪池の底に棲む“ある妖怪”の一部を材料に(こしら)えたと云われておる。

…早苗殿。そなたには、これの材料となるその妖怪を捕らえ、儂の前へ連れて来てもらいたいのじゃ!」

緋衣さまの頼みは、言い方さえ違えど、青衣の時と同じ内容でした。

「池の底には“宝”があると聞きました。
その妖怪とやらが、宝なのですか…?」

「んーむ、半分当たりじゃ。
池の底に居る者とはの、“蟹”じゃ!」

「かに…?」

鋏を持ち、水辺に棲むあの蟹のことかしら。
緋衣さまは白い指で、円鏡を愛おしげに撫でます。

「この円鏡は、その蟹の甲羅から作られた。従って儂が欲しいのは、水底(みなぞこ)の蟹の“甲羅”ということになる。」

緋衣さまは話を続けます。
傾聴すべき本題は、この後だったのです。

「ーーーじゃが、早苗殿。
それを取ってくるのは“そなた一人”で。
お使い達の手は決して借りてはならぬよ!」

その言葉にいち早く反応したのは仁雷さまでした。
片膝を立て、緋衣さまとわたしの間を遮るように、身を乗り出します。

「この山の狒々族なら当然、巡礼のことは知っているな?
俺達は早苗さんの護衛だ。何があっても早苗さんを一人でなど行かせない。」

「無論知っておるとも!承知の上での試練じゃ。
早苗殿はたった一人で、水底の蟹を、儂の元へ届ける。それが巡礼の第二の試練じゃ。理解したかのう?」

仁雷さまの低い唸りにも、緋衣さまは怯むどころか、人懐っこい笑みを浮かべます。
ただ己の役目を全うするだけ…と言うように、とても堂々としているのです。
わたしはその姿に、青衣の時とはまた違った不安を覚えました。

今度は、義嵐さまが微動だにすることなく、緋衣さまへ訊ねます。

「…狒々王をどこへやった?
あのケチで手前勝手な妖怪が、みすみすお前に地位を譲り渡すとは思えないけどなぁ?」

あれ(・・)はもうおらぬ。
狗神様より賜った大切なお役目を、同じ狒々である儂が受け継いだだけのことよ。」

わたしが眉根を顰めたのを、緋衣さまは見逃しませんでした。

「疑っておるな?早苗殿。
大方、青衣の奴めにも同じことを言われたのじゃろう。

あれは嘘つきの無法者と聞く。顔すら見たこともないが、とても狒々王に代わる器ではなかろう。信じる必要などない。
賢い早苗殿なら、どちらが信用に足る者か分かるじゃろう?」

青衣を間近で見たわたしは、とてもあんな恐ろしい妖怪が、狗神さまを信仰しているとは思えませんでした。
義嵐さまと仁雷さまを「野犬」呼ばわりしたことからも…。

ですが目の前の緋衣さまも、信用するにはあまりに不信な点が多すぎました。
どちらの味方につくのも危険な予感がして、

「……瓢箪池には、参ります。
けれど水底の蟹をどうすべきかは、まだ分かりません…。」

わたしは、そんな逃げ道を選ぶのでした。


「ホホ、よかろう。
さあ、皆疲れておることじゃろう。今宵はこの緋衣の塒で、ゆるりと過ごすがよい!」

緋衣さまの元気な言葉を合図に、控えていたお猿達が恭しく、わたし達三人をもてなし始めました。

お猿達は、仁雷さまと義嵐さまにお酌をしようとしますが、

「酔って早苗さんから目を離しては大事(おおごと)だ。俺は遠慮する。」
「おれは蟒蛇(うわばみ)だからお酌が間に合わんよ。自分でやる。」

きっぱりと断られ、少ししょんぼりと酒瓶を下げるのでした。

わたしの傍には、初めに道案内をしてくださった柿さまが付きます。

【早苗様も、お酒はいかがですか?
山で採れた桃もございますよ。】

「あ、ありがとうございます。
でもわたしはお酒を口にしたことがなくて…。桃をいただけますか?」

【はい。食べやすいよう切り分けますので、少々お待ちくださいませ。】

柿さまは大ぶりな桃をひとつ手に取ると、もう片方の手を、ふかふかの毛皮の中に突っ込んでモゾモゾし始めます。何かを探しているようです。

「どうかなさいました?」

【いえ…申し訳ありません。小刀を持って来たつもりなのですが…。】

果物を切るための小刀…。
わたしはとっさに、自身の帯に差していた、螺鈿の懐剣を抜き出しました。

「良かったらお使いになって。まだ一度も使っていないので、清潔よ。」

【えぇっ!?】

声を上げたのは柿さまですが、隣の仁雷さまと義嵐さまも、反射的にこちらに顔を向けました。

「さ、早苗さぁん…。
それはいくらなんでも躊躇い無さすぎ…。」

義嵐さまが気まずそうに声を漏らします。
柿さまも慌てて、手をパタパタと横に振るのです。

【それは試練達成の証である大切な宝物(ほうもつ)です!桃を切るなどそんな罰当たりなこと!私にはとてもとても…っ!】

「えっ!まあ…いけないことだったのですね……。」

良かれと思って取った行動でしたが、そんなに軽率だったなんて…。
身を小さくするわたしに対して、仁雷さまが優しくこう言ってくださいました。

「いけないことはないが…、今までやった者は居ないな…。はは、でも早苗さんらしい。」

「仁雷さま…。」

雉喰いの殻に自ら飛び込んだ時も、後先をよく考えずにとった行動でした。その出来事を思い出していらっしゃるのでしょう。

「早苗さんが得た宝なんだから、それをどう使うかも、早苗さんの自由だと思う。」

そう言って、優しげにわたしを見つめる仁雷さま。その眼差しを受けて、わたしはなんだか無性に…気恥ずかしい思いになりました。


「…では、わたしが代わりに桃を切ります。
それなら柿さまが気を揉むことはないでしょう?」

わたしの提案に、柿さまは更に困惑の表情を浮かべてしまいました。

【ア、アウ…。ひ、緋衣様…。】

柿さまの救いを求める視線を受けて、緋衣さまは一層楽しげに微笑みます。

「ふふ、ホホホ!珍妙な娘じゃのう早苗殿。
滅多にない機会じゃ。螺鈿の懐剣で切り分けた桃、儂にも一切れ貰えるか?」

「あ…は、はいっ。」

ご主人さまの許可を得たところで、わたしは柿さまから桃を受け取り、早速螺鈿の懐剣の腕を振るうこととしました。

七色に光る刃をそっと桃の溝にあてがい、そのままくるりと一周切り込みを入れます。
刃の美しさもさることながら、切れ味もとても良いのです。犬居屋敷の炊事場にあるどの包丁よりも優れているのでは。

八等分に切り分けた桃を、手近な(さかずき)に盛ると、柿さまが盃ごと緋衣さまへと差し出します。
緋衣さまの白く細い指が桃を摘み、そのままご自身の口へ。

「お味はいかがですか?」

わたしが訊ねると、しばらくもぐもぐと咀嚼していた緋衣さまは、ゆっくりと桃を飲み込んでから、

「至って普通の桃じゃの!
じゃが、不思議と胸が満たされるようじゃ。」

そう、満足げに微笑まれました。
そのなんとも素直な笑顔に、わたしもつられて(ほだ)されてしまうのです。

「それは…ふふ、ようございました。」