青衣の生死は分かりません。

しかしあんなに強大な妖怪が、落盤で命を落とすでしょうか…。
足早に青衣の洞窟を出たわたし達は、本来の目的地である瓢箪池を目指しました。

そして、なぜでしょう。

「……あの、仁雷さま…。」

「…………。」

洞窟を出てからというもの、仁雷さまがわたしを抱え上げたまま、下ろしてくださらないのです。

辺りはすっかり夜の闇に包まれています。夜の山の危険を警戒してのことかと思いましたが、どうも理由は別にあるようでした。

「……仁雷さま。わたし、どこも怪我していませんし、自分で歩けますわ。重いでしょう…。」

声を掛けても何も答えず、淡々と歩みを進める仁雷さま。どうしたら…と戸惑っていると、先頭を行く義嵐さまが代わりに答えてくださいます。

「悪いけどしばらく抱えられておくれよ、早苗さん。
仁雷は今日のことをひどく後悔しててね。せめて安全な場所に着くまで、大事な早苗さんを片時も離したくないんだよ。」

普段なら義嵐さまの言葉に噛み付く仁雷さまですが、この時ばかりは黙って歩みを進めています。

抱え上げられているため、仁雷さまの表情はよく見えません。

「…あの、仁雷さま、ありがとうございます。命を助けていただいて。」

「………。」

すっかり口を閉ざしてしまって、お返事はいただけませんでした。


青衣に連れ去られてからこれまでの出来事は、すでにお二人に話していました。義嵐さまはその上で、気になることを問われます。

「早苗さん。青衣って奴は、自分自身が南の山々と池泉の主だと言ったんだね?
狒々王(ひひおう)”の名は一度も口にしていなかった?」

狒々王…。初めて聞く名です。それが本来の、狒々の池泉の主なのかしら。

「はい。自身が主だと言っていました。
そして、仁雷さまと義嵐さまに頼らず、わたし一人で試練に挑むようにと…。」

「…………そんなことが…あり得るか…。
やはりあの場に残って…奴を喰い殺すべきだった…。」

仁雷さまの声が小さく聞こえた気がしました。内容は聞き取れませんでしたが、どうやら何かに怒っているようで、

「……も、申し訳ありません。ご心配をお掛けしてしまって…。」

「………イヤ、早苗さんは悪くない。」

仁雷さまは、それだけを聞こえるように答えてくださいましたが、すぐにまた黙り込んでしまいました。

どうしよう。どうしたらいいのかしら。ひどく心配を掛けてしまったのに。
元気になっていただきたいのに…。

うんと考えた末、わたしに出来ることはこれくらいしかありませんでした。
それは、仁雷さまの俯きがちの頭を、優しく抱きしめること。幼い頃、母に抱きしめられると、とても心が安らいだ記憶がありますから。

「…っ!!?」

仁雷さまの肩がビクリと躍ねました。
いけない、変に驚かせてしまったみたい。

「…あの、仁雷さま。ありがとうございます。
わたし、お二人が助けに来てくださって、本当に嬉しかったのです。とても心細かったものですから…。

この感謝の気持ちが、ほんの少しでも伝わるといいのですが…。」

わたしの腕の中で、仁雷さまの口が「アワアワ」と動いている気がします。耳を澄ませば小さな声で、

「…つ、伝わってる。伝わっているから、どうか離して…。心臓が…もたない…。」

「あっ、すみません…!」

心なしか仁雷さまの顔が朱色に染まっています。でもわたしの目を、確かに見てくださいました。
良かった。少しだけでも元の調子を取り戻してくださったみたい。


「…にしてもなぁ、あの青衣とかいう奴、言うこと為すこと全てが怪しいな。
そもそも瓢箪池を含め、南の山々を纏め上げているのは、大妖怪“狒々王(ひひおう)”のはずだ。代替わりしたとかいう噂も聞いたことがない。」

義嵐さまの言う“狒々王”については、今なおわたしを抱える仁雷さまが教えてくださいます。

「狒々王はその名の通り、この南の山に棲む、猿達の頭領だ。
巡礼の際は毎回、犬居の娘に第二の試練を課す役目を担っている。十年前も、俺達は確かに狒々王に会ったんだ。」

「そうなのですね…。狒々王さまとは、どんな方なのですか…?」

この問いには、義嵐さまは苦々しい顔。

「…あんまり褒められた奴じゃあないなぁ。
悪い奴じゃないんだけど、とにかく欲が深くて何事にも執念深い。特に池泉の宝への執着が強かった。それでもなぜだか、猿達からの信頼は厚かったようだ。」

わたしの脳裏に、恐ろしい青衣の姿が浮かびます。

「…そ、そうなのですか…。どのような試練を課すのですか?」

教えてくださるかしら…と心配しましたが、今回は異常事態ということを(かんが)み、義嵐さまが答えます。

「早苗さんは、瓢鮎図(ひょうねんず)を知ってるかい?」

「瓢鮎図?えと確か…池の中のぬるぬるした(なまず)を、すべすべした瓢箪(ひょうたん)で捕らえることができるか…という禅問答(ぜんもんどう)のことでしょうか?」

多くの偉人が答えたという大昔の問答で、明確な答えは存在しない…と記憶しています。

「そう。瓢箪の形の池に掛けて、狒々王が瓢鮎図の答えを問う。それに上手く答えられたら、第二の試練突破だ。まあ、とんち合戦だな。」

「争いもなく平和的な試練だと思っていたが…、今回はどうも例年通りにはいかないようだ。」

見知らぬ狒々。聞いたこともない試練。
これには義嵐さまも仁雷さまも困惑しているようでした。

「…青衣は、瓢箪池の宝を欲しがっていました。何か秘密があるのかもしれません…。」

「そうだなぁ。日が昇ってから、瓢箪池を見に行ってみようか。」

一体何が潜んでいるのか、不安があります。
けれど今はお二人が付いていてくださる。これほど心強いことはありません。