庵楽堂の菓子は、宮廷に献上までしたことのある由緒ある商家。
常日頃から華族に仕える使用人が庵楽堂の菓子を目当てに足を赴くのも珍しいことではなく。
たまたま店先にいた麗子をみて見初めた伯爵がいたとして、それもまた珍しいことではなかった。
以前も麗子宛に華族からの縁談の申し入れがあった。
階級は男爵。
華族ではあったが、宮廷と面識がある庵楽堂は、男爵家の言葉を跳ね除けるだけの実績と権力を握っていた。
麗子の意に沿わない縁談であったため、男爵との縁談はもちろんなかったことになった。
だが、今回はわけが違う。
天子の遠い外戚である「一ノ宮家」の次男からの縁組の提案がされたのだ。
そして一ノ宮家の次男は、妾の女性を幾人も囲い込むほどの女好きで有名であった。
(大旦那様はなにを考えているの……麗子様を欲しているのに、私が代わりだなんて)
はあ、と溜め息を吐いた深月は、物置小屋の小さな窓から暗い夜空を見つめる。
深月の心情を映し出す鏡のように、今夜は月もない曇天だ。
「──いや、いや、縁談なんて、いや」
消え入りそうな声で何度も呟く。
深月はいつもの癖で手首の組み紐を指で弄った。
いつからかわからないが、物心がついた頃にはしていた硝子石が嵌め込まれた組み紐は、こうして深月の精神安定剤になっていた。
動揺や不安、恐怖や苦しみ、そういった負の感情が、この組み紐に触れることによって消えるような気がして。
最初から逃げ場などないこの状況に、本心を覆い隠すように、触れ続ける。
(大旦那様が私に話したということは、すでに事が進んでいるのでしょうね)
嫌だ、と渦巻いていた深月の葛藤がゆっくりと薄れていく。
(……本当に、私にはなにもない)
初め深月は孤児だったという。
実の両親は赤子の深月を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
次に深月は、血の繋がらない養父と共に暮らした。多くて週に二、三回。少ないときは週に一度顔を見せるだけしてまた出かけて行った養父。
彼がどんな仕事に就いていたのかもわからない。そうしてある日突然、傷だらけで帰ってきた養父は深月に看取られ命を落とした。
養父が死んで、次は庵楽堂のご厄介になり。
転々と生きる深月には、本当の居場所というものがなかった。
自分にはなにもない。
ただ、今はこうして養父の借金を返すことだけが深月の生きる意義だった。
それがなくなるのなら、深月にはなにも残っていない。
なにもない人生ほど虚しいことなどないと思う。だってそれは、人の本質すら見失いかねないから。
(この先、私は……何になるんだろう)
縁談を受け入れ、借金返済から解放されて見ず知らずの男の元へ嫁ぐことになるのだとしたら。
深月はいつも、考えていた。
なにもない自分が、特別ななにかになる日はくるのだろうかと。
(この物置小屋も、片付けないと)
贅沢なことはいわない。
ただ、生きたいと思えるだけの「なにか」と出逢える日が、きて欲しい。