「この小学校に万引きをした人がいます。自分からごめんなさいを言えば通報しないとお店のご主人が言ってくださっています。身に覚えがある人は正直に言いなさい」

 担任の先生が終わりの会でそう述べたとき、ぼくは来るべき時が来てしまったとこぶしをにぎりしめた。
 教室はざわめいた。
 互いに互いの目を見合わせ、まさかお前じゃないよな、と冗談まじりの口調で確かめ合う。まさかこのクラスに本当に犯人がいるなんて、みんな知らないから、半信半疑なのだ。

 教室の中では石油ストーブが焚かれていて、その上に乗せられたやかんから出る蒸気で室内はむっとしていた。それがぼくの脇からじとっとわき出る汗に拍車をかけていた。ちらりと、二つ隣の席のレイヤに視線をやった。じっと下を向いてだれとも口をきこうとしないレイヤの横顔。悲しみとも後悔ともとれる表情を浮かべている。やっぱりそうだよな――ぼくは心の中でつぶやいた。
 頭の中で嫌でもくり返し再生されるのは、先週末偶然見かけた光景だ。平然とした顔つきで女児用のおもちゃつきのお菓子の箱を数箱、自分のジャンパーの内側へ慎重に放り込んでいく光景は、見ているこちら側がむしろドキドキしてしまった。

 レイヤ、早く手を挙げてしまえよ。

 念を送るかのように、ぼくはじっとレイヤの横顔に鋭い視線を送り続ける。するとそれに気がついたかのように、レイヤが勢いよく顔を上げ、ぼくと目を合わせた。

 ぎくりとした。レイヤの目に浮かんでいたのは、ありのままに罪を告白しようという清廉潔白な様子でも、反省でも、おびえでもない。

(絶対に言うなよ)

 充血した目が、ぼくを脅していた。蛇に睨まれた蛙のように、ぼくは身を凍らせる。
 だれも手を挙げず、ただ騒がしくなっただけの教室に、先生はしびれをきらした。

「じゃあ、万引きの現場を見た人はいないかな? 先生は道徳の授業でいつも君たちに話しているよね。いじめはやった人だけではなく、ただ見ていただけの人も悪いんだよって。道徳の教科書に書いてあるようなことも守れない奴は、大人になれないぞ。万引きを見ていて黙っている人は、共犯者だ」

 共犯者ということばの響きに、クラスメイトが一斉におもしろがって悲鳴を上げた。先生の乱暴な表現に異議申し立てる勇者はどこにもいなかった。
 先生の繰り出した次の一手に、やられた、とぼくは顔を真っ青にした。レイヤに一瞥を投げかけると、彼は唇の動きだけでぼくにこう伝えた。

〈言うな、頼む〉

 その唇の動きはぼくが――ぼくだけが英雄になることを阻止しようとしている。ぼくは二枚の重い板にぴったりと挟まれた哀れで無力な虫けらだった。自ずと腕と足がぶるぶる震え始める。教室の中はどんどん熱くなっていくのに、ぼくの体は逆だった。
 なんとか唇の動きで返事をしようと思ったその時、レイヤが机の下でにぎりしめているものが目に入った。
 それは首からさげるタイプの名札だった。黄色とピンクのしま模様のその首ひもに心当たりがあった。近所の保育園のものだ。迎えにくるお母さんやおばあちゃんが、不審者ではなく正真正銘保護者であると明かすための名札なのだ。
 それからもう一つ思い出したことがある。レイヤの家はお父さんがいない。お母さんは朝から晩まで働き通しで、日によってはやむなくレイヤの妹を兄であるレイヤ自身が下校途中で迎えに行っているのだということ――。
 子どもが子どもの保育園の送り迎えをする。それはどれほど心細いことだろう。でもレイヤは教室の中で泣き言ひとつはき出したことはなかった。妹を寂しがらせまいと、必死に親代わりを務めているのだ。

 ひょっとして、おもちゃつきのお菓子も……。

 虫けらがバタバタ羽ばたきをくり返していると、ついに待ち望んでいたひと言が耳に飛び込んできた。

「このクラスには知っている人はいない――とりあえず今日はそういうことにしておこう。でもまた何か君たちに話を聞くことがあるかもしれない。ひとまず、今日は気をつけて帰りなさい。くれぐれも道草は食わないように」

 ほっと胸をなで下ろした。トレーナーはすっかり汗だくだが、その汗が引いていく冷たさが心地よかった。


 周りがさようならーとランドセルを担いで勢いよく教室の外へ羽ばたいて行くのに、ぼくとレイヤだけは二人とも意識的にゆっくり帰り支度をした。まるで足に鎖が巻き付けられているかのように。

 先生がストーブの火を切って教室を出てしまったのを見計らって、レイヤはいくばくか紅潮した顔をぼくの耳に近づけて、ささやいた。

「今日からきみは共犯者だね」

 それでもよかった。ぼくの胸の中に広がっていたのは、小さなお父さんを守り切れたという達成感だったのだ。

 どちらも汗でびっしょりの手と手で、ぼくたちは悪友の握手を交わした。

「ぼく、道徳の教科書通りには生きられそうにないや」

 レイヤは満足そうに、でもいくぶん申し訳なさそうに笑った。さびしい笑顔だった。