水月と青藍のおかげで春麗の後宮での生活は当初よりも随分と楽しいものとなっていた。未だに桃燕からと思われる嫌がらせは続いていたが、そんなことが気にならないぐらい春麗にとって幸せな日々だった。

「よしっと。終わったよ」

 扉の向こうにいた虫を箒で掃き飛ばすと、春麗は佳蓉に声を掛けた。もはや日課のようになっているこの虫の片付けにも慣れた。佳蓉に宦官を呼びに行ってもらっている間に春麗は今日の花見で水月と食べる菓子を選んでいた。

 随分と暑くなってきたので何かひんやりとしたものを持って行ければいいのだが、氷は高級品で春麗に手が届くような品ではない。青藍に言えばすぐに用意してくれるだろうが、だからこそ言いたくなかった。今でさえ色々なものを持ってきてくれたり届けてくれたりするのだ。これ以上何かを求めることは我が儘がすぎる。

「うーん、何がいいかな」

 暫く考えていると佳蓉が戻ってきた。どうやら虫は無事片付いたようだ。

「ありがとう、佳蓉」
「いえ。ところで、先程姜宝林様にお会いしたのですが、何やら急な用事が入ったとかで本日のお花見は難しいそうです」
「そっか……。残念だけれど仕方ないね」
「明日も花は咲いていますので」

 慰めるように言う佳蓉の言葉に春麗は頷いた。しかし、翌日もそのまた翌日も、水月と花見をすることは叶わなかった。

「どうやら姜宝林様はお忙しいようで」
「そうなの?」
「はい。後宮にいた女官たちもかなりの人数が減ってしまいましたので、一人一人の仕事量が随分と増えてしまっているらしく、しばらくは来られそうにないとのことでした」
「そっか……。でも、お仕事なら仕方ないよね」

 皆が皆、位階を持っていない春麗のように毎日を暇に過ごしている訳ではない。春麗が何もしていない時間も、水月や他の女官たちは働いているのだ。

「忙しいのが落ち着いたら、また来てくれるかな」
「ええ、きっといらしてくださいますよ」

 楽しい時間がなくなるのは寂しいけれど、きっとまた落ち着いたら会えるはずだ。そう思っていた。

 水月と会わなくなって一週間が過ぎた。毎日のように会っていた水月に数日会わないだけで、もう随分会っていないような気がした。

「はぁ……」
「春麗様、大丈夫ですか?」
「うん……。心配かけてごめんね。大丈夫だから」

 何とか笑みを浮かべたが、無理矢理笑っていると佳蓉には気付かれていた。

「たまには外に出ませんか?」
「そう、だね。そうしようか」

 あまりにも心配そうに言う佳蓉に、これ以上心配をかけないためにも春麗は頷いた。

 久しぶりの外は日差しがとても眩しい。後宮に初めて来た時はあんなにも寒かったのに、今では薄手の襦裙でも暑いぐらいだ。夏が過ぎ秋になれば、庭園の花々もまた違った顔を見せるだろう。その頃には水月の忙しさも落ち着いているだろうか。

 そんなことを考えながら槐殿を出て庭園までの道のりを歩いていると、遠くに水月の姿が見えた。

「ね、ねえ。佳蓉」
「どうなさいました?」
「その、一緒にお花見をすることはできなくても、少しお話しするぐらいなら迷惑ではない、かな?」

 春麗の視線の先に水月を見つけた佳蓉は、優しく微笑んだ。

「ええ、少しぐらいなら大丈夫ではないでしょうか」

 佳蓉の言葉に、春麗はパッと顔を輝かせた。

 邪魔をしてはいけないのでそっと静かに水月の元へと向かった。同じ色の襦裙を着た他の女官たちと一緒に、水月は洗濯物に勤しんでいた。

「すいげ――」

 声を掛けようとした春麗は、めくられた袖から見える水月の腕に(あざ)があるのに気付いた。腕だけではない。足にも、何ヶ所も痣があった。どこかにぶつけたのだろうか。それとも、まさか。

「春麗様?」
「水月様……」
「あっ……」

 春麗の視線に気付いた水月は、思い出したかのように手足を隠す。まるで春麗には見られたくないとでも言うかのように。

「あの、ちょうど歩いていたらお見かけしたので」
「そうだったのですね。最近、槐殿に伺えなくて申し訳ございません」
「いえ、それはいいのですが。それより、その手脚……どうなさったのですか?」
「これは……その、転んでしまって」

 あきらかに嘘だとわかる言葉に、春麗は食い下がってしまう。

「本当ですか? どなたかに殴られたのではないのですか?」
「ち、違います。本当に転んだだけで……」

 目を合わせようとしない水月に、疑念がどんどん確信へと変わっていったが、どれだけ春麗が尋ねても、水月は「転んだだけです」と言い張るばかりだった。

「あの、えっと私まだ仕事が残っておりますので。失礼致します」
「あっ」

 水月は春麗を避けるように去って行ってしまった。残された春麗は、走り去る水月の背中を見つめることしかできなかった。

 結局、春麗は花を見ることなく槐殿へと戻った。水月の手足に残る打撲痕が気になって仕方なかった。どう見ても誰かから殴りつけられたような痕に見えたが、水月はそれを認めようとしない。一体どうして。

「……れい」

 誰かを(かば)っている? それとも、誰かに口止めされている? 後者だとしたら、一体誰が。

「春麗」

 悩みがあるのなら教えて欲しかった。友達だと言っていたのは嘘だったのだろうか。友達だと思っていたのは春麗だけだったのだろうか――。

「楊春麗」
「はっ、はい!」

 春麗の思考を遮るようにすぐそばで名前を呼ばれ、思わず姿勢を正す。慌てて顔を上げれば、眉をひそめたまま春麗を見つめる青藍の姿があった。

「あ、あれ? 主上……?」
「俺の隣でぼんやりするとは、どういう(りょう)(けん)だ?」

 水月のことで思い悩みすぎ、青藍が槐殿に来たことすら気付いてなかった。慌てて頭を下げて青藍に謝った。

「も、申し訳ありません!」
「ふん。俺が来たことにも気付かないぐらい何を考えていた?」
「そ、それは」
「言え。俺に隠し立てをするな」

 どうするべきか一瞬考えたあと、春麗は素直に今日あった出来事を話すことにした。

「つまり、姜水月が何者かに危害を加えられていると。そのことが気になって俺が来たことにも気付かなかったと、こういうことだな」
「申し訳ありません……」
「浩然」
「はっ」

 青藍に名前を呼ばれると、浩然は頭を下げて槐殿をあとにした。

「あ、あの?」
「今、浩然に何があったか調べさせている。すぐにわかるだろうから安心しろ」
「ありがとうございます!」
「ふん。お前が俺以外のことに気を取られているのは気に食わないからな」

 そう言うと青藍は春麗の膝に頭を載せ、長椅子に寝転がった。

「主上!?」
「浩然が戻るまで寝る。戻ってきたら起こせ」
「起こせと言われましても」

 突然のことにどうしたらいいかわからず、春麗が慌てているうちに青藍は規則正しい寝息を立て始めた。

「ほ、本当に眠ってしまわれたの……?」
「そんなわけないだろう」

 寝顔を覗き込むようにしていた春麗は、突然目を開いた青藍と至近距離で目が合った。

「ひゃっ」
「なんだ、その声は。お前が覗き込んでいたのだろう」
「だ、だって眠っていらっしゃると思ったんです!」
「それで? 眠っている俺に何をする気だったんだ?」
「な、何って……」

 寝顔を覗き込んで、それで――。

「ち、違いますから! 絶対に、違いますから!」
「うん? 俺は何も言っていないぞ? 一体何を考えていたんだ?」

 くつくつと笑う青藍の姿に、揶揄われたことに気付いたが後の祭りだった。顔を隠そうとしたが、腕を青藍に掴まれて隠すこともできない。

「だから、その――」
「……浩然か」
「はい。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ」

 しどろもどろになっている春麗を尻目に、いつの間に戻ってきたのか部屋の戸の向こうに姿を現した浩然は青藍の許可を得て部屋へと入ってきた。慌てて体勢を直そうとしたが、青藍は意に介さず春麗の膝の上に頭を置いたままだった。

「先程、春麗様がおっしゃっていた件についてですが」

 浩然もそんな青藍の姿を気にすることなく、淡々と報告していく。恥ずかしがっているのは春麗ただ一人だけだった。

「どうやら黄桃燕様が侍女たちを使い姜水月を(いた)()っているようです」
「黄昭儀様が……」

 思っていた通りだったが、実際に浩然の報告を聞くと胸の奥に重いものがのしかかってくるようだった。

「ちなみに……理由って……」
「……ご想像通りです。春麗様と姜水月が懇意にしていることを聞き、嫌がらせをしたとのことでした」
「あ……」

 春麗は目の前が真っ暗になった。自分のせいで、水月が嫌がらせを、それも暴力を受けている。自分と仲良くならなければ、されることもなかったのに。自分のせいで……。

「春麗」
「しゅ、じょう……」
「自分のせいだと気に病むな。こういうことはされる奴に理由があるのではない。する者の心が病んでいるのだ」
「で、ですが……」

 自分が嫌がらせをされるのであれば耐えられた。虫を置かれ、突き飛ばされて服を汚されても笑っていられたのは、その悪意の矛先が全て春麗に向かっていたからだ。

 しかし水月はただ春麗と仲がいいというそれだけの理由で嫌がらせをされていた。痣ができるほど殴られるなんて、どれほど辛かっただろう。

「……そのような顔をするな」

 青藍は春麗を見上げると、そっとその頬に触れた。

「お前がそんな顔をするのが俺は一番嫌だ。お前の顔を曇らせるのであれば、今すぐに黄桃燕を処刑してもいい。どうする?」

 青藍の言葉に、春麗の心は揺らいだ。

 桃燕を処刑しないまでも、このまま嫌がらせを続ければ処刑になるぞと言えば水月への嫌がらせはなくなるだろう。また二人で茶をしたり花見をしたりすることだってできるだろう。
そんな未来を思い描くだけで泣きたいぐらい嬉しくなり、青藍の言葉に甘えそうになってしまう。

 けれど、それでは――。

「駄目です」
「春麗?」
「それじゃあ、駄目なんです」

 桃燕に処刑を突きつけて謝罪させたとしても、きっと春麗への風当たりは弱くはならない。それどころか、青藍の寵愛を盾に妃嬪を処刑させたと悪い噂だけが回る。

 それでも水月を助けられるのなら、自分が悪く言われるのは構わない。ただ、その場合、春麗だけではなく青藍までもが悪く言われるかもしれない。そして、それは第二、第三の桃燕を生み出しかねないのだ。

「私は、私の力で、この場所に居場所を作りたいと、そう思います」
「……そうか」
「はい。きちんと話をしてそれで解決できればと思います」
「わかった。だが、三日だ。三日の間は俺は手を出さない。だがそれ以上かかるようであれば、俺が手を下す。いいな」

 眉をひそめ顔をしかめながら言う青藍の言葉に春麗は頷いた。きっと本当は今すぐにでも手を下してしまいたいとそう思っているはずだ。それでも春麗の思いを汲んで、三日という(ゆう)()をくれた。それは青藍の精一杯の(じょう)()であり、優しさだった。

「ありがとうございます」
「……無理はするな。何かあったら俺を頼れ。俺は、お前に頼ってもらいたい。それだけは覚えておいてくれ」
「勿体ないお言葉です」

 はにかみながら微笑む春麗の髪を青藍はそっと撫でた。ゴツゴツとした手で撫でられているはずなのに、何故かとても心地よかった。



 翌日、春麗は桃燕の元へと向かった。とにかく一度話をしようと思ったのだ。

 桃燕の暮らす梅(ばいか)殿(でん)は後宮の門から程近い場所にあった。槐殿とは比べものにならないぐらい大きく、煌びやかだ。梅の花があしらわれた門の前には女官が立っていた。

「あの、黄昭儀様にお会いしたいのですが」
「お名前と位階をお教えください」
「なっ」

 淡々と言う女官に対し佳蓉は「誰に向かって言っているのですか」と言わんばかりの勢いで声を上げた。そんな佳蓉を制すると春麗は微笑みを浮かべた。

「楊春麗です」
「位階は何にございますか?」
「えっと。位階は……ございません」

 位階がないと伝えた瞬間、女官の視線が鋭くなったのを感じたが、ここで引くわけにはいかない。春麗には時間がないのだ。

「少々お待ちください」と女官は殿舎の中へと入っていった。暫くその場で待っていると、先程の女官が戻ってきた。

「黄昭儀様がお会いになるそうです」

 女官に連れられ梅花殿の中へと入る。中には桃燕付きの女官たちが忙しなく仕事をしていた。春麗と佳蓉しかいない槐殿とは随分と異なる。

 奥にある正殿へと向かうのかと思えば、梅花殿の中庭へと案内された。

「あの……?」
「間もなく黄昭儀様がいらっしゃいますので、こちらでお待ちください」

 女官の言葉に春麗は頷いた。中庭には春麗と佳蓉だけが残される。梅花殿の中庭は庭園ほど大きくはないけれど、芙蓉や(ほう)(せん)()といった花々が咲いていた。

 後宮に上がったばかりの頃は、どの花を見ても名前なんてわからなかった春麗だったが、何度も庭園に通ううちに花の名を覚えた。それもこれも全て何もわからない春麗に水月が丁寧に教えてくれたからだ。

 春麗にとって大切な友人である水月に対して嫌がらせをしている、させているという桃燕を何とか止めたい。その一心だった。

「お待たせしたわね」

 侍女を連れて(せい)殿(でん)から現れた桃燕は、まるで目下の者に接するかのように春麗に言った。佳蓉が(ぼつ)(ぜん)としたのがわかったが、春麗は腰を折り頭を下げた。

「突然の訪問、申し訳ございません」
「いいわ、許してあげる。それで? 何のご用かしら」

 丁寧な口調で(へりくだ)る春麗に気を良くしたのか、桃燕は笑みさえ浮かべていた。

「……桃燕様は姜宝林様をご存じでしょうか」

 しかし春麗が水月の名を出した瞬間、その笑みは消えた。ただすぐにまた(にゅう)()な表情を浮かべると、申し訳なさそうに桃燕は口を開いた。

「どなたかしら? ごめんなさいね、あなたはご存じないかもしれないけれど、後宮にはたくさんの人間がいるの。宝林ですと私とは接点もないので、存じ上げないわ」
「そう、ですか」

 桃燕の言葉が白々しい嘘だということはわかっている。何と言えば嘘を暴けるだろうか。

「それで? その姜宝林がどうしたというの?」
「……何者かに嫌がらせを受けているようなのです。身体中に痣を作り、痛々しい姿で仕事をしております」
「まあお気の毒に。後宮でそのようなことが起こっているなんて許せないわね。よく相談してくれたわ。私が責任を持って調べさせておくわ。(ほう)(えん)
「はい」

 いつの間にそこにいたのだろうか。峰延と呼ばれた桃燕付きらしき宦官は呼び掛けに頭を下げると口角を上げた。

「私から報告をしておきますのでご安心ください」

 嘘だ、と春麗は直感的に思った。嘘、というよりも桃燕に命じられて嫌がらせを行っているのがこの峰延なのかもしれない。()()た笑みを浮かべる峰延を見ているとそんなことすら思えてしまう。

「わざわざご報告ありがとう。他に用がなければこれで失礼してもよろしいかしら? あなたと違って忙しいの。そこのあなた、お見送りして差し上げて」

 これで話は終わり、とばかりに桃燕は言うと、そばに控えていた女官に春麗たちを見送るように言った。「承知致しました」と女官が春麗たちの元へとやってこようとするので、慌てて桃燕を呼び止めた。

「黄昭儀様!」
「……何かしら? まだ私に何か御用が?」
「本当に姜宝林様をご存じではありませんか? 全てはあなたが命令して――」
「何と言うことを!」

 春麗の言葉を遮ると、桃燕は睨みつけた。

「主上のお気に入りだからといって言っていいことと悪いことがあるのもわからないのですか? ああ、嫌だ。まともな教育もされていないと、こんなふうになるなんて」
「……っ」

 確かに春麗はまともな教育を受けてはいない。それは否定できない事実だ。しかし……。

「それでも私は、誰かに対して実家を、そしてその人本人を(けな)すようなことは致しません」
「なっ」

 真っ直ぐに言い返した春麗に、桃燕は言葉に詰まった。自分がされてきて嫌だったことを人にしたくない。だから(おとし)めるのではなくきちんと向き合いたいと思っている。たとえそれが桃燕相手だとしても。しかし、そんな春麗の想いは桃燕に届くことはなかった。

「不愉快よ! 峰延、今すぐこの者を私の宮から追い出しなさい!」
「承知致しました。楊春麗様、失礼致します」
「あっ」

 峰延は春麗の腕を掴むと、引きずるようにして連れて行こうとする。そんな峰延の腕を佳蓉が必死に止めようとしたが、宦官とはいえ男である峰延の力に敵うことはなく、結局佳蓉もろとも梅花殿から追いやられてしまった。

「春麗様! お怪我は!?」
「私は、大丈夫。佳蓉こそ、怪我はない?」
「こんな時まで私の心配など……! 春麗様をお守りすることができなかったこと、本当に申し訳ございません」

 涙を浮かべながら叩頭しそうな勢いで言う佳蓉にもう一度「大丈夫だよ」と声を掛けた。梅花殿の入り口では女官が春麗と佳蓉を不審そうに見ていたので、春麗は「行こっか」と佳蓉を連れ立ち歩き出した。

 あの様子では、春麗が何を言おうと自分がやったことを桃燕が認めることはないだろう。それどころか春麗に手を出さない分、水月への嫌がらせが酷くなる可能性すらある。水月を守るためにはやはり青藍に止めてもらうしかないのだろうか。しかし、そうなればきっと桃燕は後宮にいられなくなる。いや、それで済めばまだいい。昨日の青藍の言動からは、それ以上のことすらしかねない。

 確かに桃燕のしたことは腹立たしく思うし、直接春麗に何かするのではなく関係のない水月に、春麗と仲がいいというだけで嫌がらせをしたことは許せない。だからといって桃燕が傷付けばいいとは、どうしても思えないのだ。

「私、水月様に会いに行こうと思うの」
「ですが、姜宝林様は春麗様と会うことを……」
「うん、望んでないよね。それはわかっている」

 ただ春麗はそれは水月の優しさからではないかと思うのだ。自分のせいで水月が嫌がらせをされているとわかれば春麗が傷付くのをわかっていて水月は春麗を避けているのではないか、と。

「そうでしょうか」

 春麗の考えに佳蓉は不満そうだった。梅花殿から槐殿までの道すがら、春麗の言葉には同意しかねるとばかりに佳蓉は言っていた。

「春麗様はお優しすぎます。私にはこれ以上嫌がらせをされたくない姜宝林様が春麗様を避けている。友情よりも自分の身を守りたかったのだと、そう思えてなりません」

 普段であれば主である春麗の言うことに納得できなことがあったとしても、自分の意見を押し通すようなことなどない上に、否定するなど(もっ)ての(ほか)だという信念の元、佳蓉が付き従ってくれていることを春麗は知っていた。しかし今は、そんな自分の信念を忘れてしまうほど、佳蓉は春麗のために怒っていた。

「……どうされました?」

 笑みがこぼれた春麗に、佳蓉は怪訝そうな視線を向けた。

「ううん、私のことで怒ってくれてありがとう」

 佳蓉の気持ちは嬉しい。それでも。

「でも、やっぱりそれは違うと思うの」
「どうしてですか?」
「だって、水月様ってそういう方、でしょ」

 根拠などない。ただ春麗はそう思いたかった。春麗には水月が自己保身のためにそうしたとはどうしても思えなかった。

 春麗の言葉に一瞬あっけにとられた表情を浮かべたが、佳蓉はふっと笑った。

「確かに、その通りですね」
「でしょ」

 佳蓉が納得してくれたことに春麗は安心する。そんな春麗に笑みを浮かべたあと、佳蓉は深々と頭を下げた。

「先程は差し出がましいことを申しました」
「ううん、気にしないで。私の行動を(いさ)めてくれるのって凄くありがたいことだから」
「そのようなこと……!」
「ううん、本当に。私が何か間違ったことを言った時に『それは違うと思う』と、きちんと言ってくれる人が周りにいることはとても大切なことだと思う」

 春麗だって誰だって人間なのだ。誤った行動をすることもあれば間違ったことを言うこともある。その時に主の言うことだと全て受け入れるような侍従だけだと、いつか取り返しのつかないことになりかねない。そして。

「黄昭儀様にはそのような方が周りにはいらっしゃらなかったのね」
「春麗様……」
「だからといって何をしてもいいわけではないけれど、でも可哀想なことだと私は思うの。……私なんかにこんなことを思われてるって知ったら、きっとまた怒ってしまうでしょうけどね」

 春麗は先程の桃燕の姿を思い出した。花琳と同い年の桃燕。花琳もそうであったが、何をしても肯定され、自分のすることは全て正しいと思い込むことは恐ろしい。けれど、彼女たちはそういうふうに育てられてしまったのだ。

 だからといって全てを許すことなどできない。水月は春麗にとって後宮にきてから。いや、生まれて初めてできた友達だ。そんな水月を何としてでも守りたかった。

 しかしこの日、春麗がどれだけ探しても水月に出逢うことはできなかった。



 その日の夕餉のあと、青藍が春麗の宮を訪れた。

(すもも)が手に入ったから食べさせてやろうと思ってな」

 青藍は浩然に持たせた籠を佳蓉に手渡させると長椅子に座った。隣に座るように言われ、春麗は素直に従う。気遣わしげに春麗を見る青藍に、ようやく本来の目的に気付いた。

「心配、してくださったのですか?」
「先程も言っただろう。李が手に入ったから持ってきただけだ」

 訪れた時と同じ言葉を青藍は顔をしかめて言う。その態度が余計に答えを言っているように思えて、春麗は小さく笑った。

「ありがとうございます」
「ふん。それで、(しん)(ちょく)は」
「……そんなことするわけない、と逆に叱責されてしまいました」

「だろうな」と言いたげな表情で、青藍は方卓に置かれた茶に口を付けた。後ろで浩然が渋い顔をしているのが見える。毒味もしていない茶を飲むなど、と言いたそうだった。

 銀の茶碗に入れて出してはいるが、青藍はこの宮で出されたものであれば大して気にもとめず口にしてしまうところがある。信頼されているのだと思うと同時に不安になる。この宮には春麗と佳蓉以外に人はいないが、それでも掃除などで宮女たちが立ち入ることもある。万が一がないとは限らない。

「どうした?」
「その、毒味をしてからお飲みになる方がよろしいのでは?」
「必要ない」
「ですが」

 視線の先にいる浩然は春麗の言葉に、その通りだと言わんばかりに頷いている。そんな顔をするぐらいなら青藍に言えばいいのに、とも思うが、すでに何度も言って断られたのかもしれない。ああ、もう。そんな目でこちらを見て、もっと言えとばかりに主張しないで欲しい。

「俺は多少の毒では死なん。それに、お前がついているからな」
「え?」
「俺には今も死の文字は出ていないのだろう?」
「それは、そうですが」

 死なないまでも苦しむことはあるかもしれない。そう思うと。

「主上に何かあれば、私は――辛く悲しいです」

 春麗の言葉に、一瞬青藍は驚いたような表情を浮かべた。

「悲しい? 私に何かあれば、か?」

 どうして尋ね返されるのか春麗にはわからなかったが「はい」ともう一度頷いた。すると青藍は「悲しい。そうか、悲しいのか」と口の中で何度も繰り返した。

「主上?」
「……今までも俺を心配したやつはいた。けれど、それは俺ではなく皇帝の身の安全を気にしているだけだった。だが……」

 青藍は春麗を見つめると口元を緩めた。

「お前の言葉は真っ直ぐに俺を想ってくれているのが伝わってくる。いいものだな」

 きっと今までも青藍の周りに青藍を心配した人間はいたはずだが、その言葉をただ素直に信じることができなかった青藍を思うと胸が痛くなる。

 春麗は隣に座る青藍の冷たい指先にそっと触れた。

「春麗?」
「私にできることなど限られていますが、こうやってそばにいることはできます」
「そうか」
「はい」

 青藍は春麗の肩に頭を預けると、小さく笑った。青藍の髪の毛が春麗の頬をくすぐる。

「こんな細い肩では俺を支えることはできないぞ」
「そ、それは……」
「冗談だ。お前に支えられなければならないほど落ちぶれてはいない」
「あっ」

 頭を起こすと、青藍は代わりに春麗の頭を引き寄せた。広い肩に頭を載せると、すぐそばで青藍が喉を鳴らしたのがわかった。

「お前はこうやって俺にもたれかかっていればいい」

 その言葉の裏に「これ以上無理をするな」と言われているような気がした。

「ですが、それでは――」
「そう思うのに、それではお前は満足できないのだろうな。だからこそ、お前に()かれるのだ」
「え?」

 顔を上げた春麗を青藍は優しく見下ろした。翡翠色の瞳は春麗を真っ直ぐに見つめていた。

「黄桃燕のことも無理をするなと言いたいが、お前がそれを良しとしないのもわかっている。だが、無茶はするな。お前が俺を心配するように、俺もお前に何かあれば悲しむのだということを忘れるな」
「ありがとうございます」

 青藍が春麗の言葉にぬくもりを感じたように、春麗もまた青藍の言葉に喜びを覚えていた。誰かに想ってもらえることがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。大切な人を守りたいと思うことが、こんなにも力になるなんて初めて知った。

 しかし青藍の言葉を嬉しいと思えば思うほど、今一人で苦しんでいるであろう水月のことが心配になった。

 そしてふと気付いてしまう。春麗が桃燕の元を訪れたことで、さらに嫌がらせが酷くなっているのではないか。少し考えればわかるはずなのに、そんなことにさえ考えが及ばなかった自分が嫌になる。

 明日、もう一度水月を探そう。そして痣について尋ねよう。証拠さえあれば桃燕も言い逃れができないはずだ。

「……主上」
「どうした?」

 春麗はすぐそばにいる青藍を呼ぶ。青藍は春麗の真っ黒な髪をそっと撫でながら、視線だけ春麗の方へと向けた。

「一つだけ、お願いがあるのですが」
「何だ、言ってみろ」
「水月様を、守って差し上げて頂けませんか?」

 春麗の言葉に、青藍はあからさまに落胆の表情を浮かべた。その表情に春麗は慌てて青藍の肩から頭を起こす。

 自分でなんとかするから手を出さないでくれと言っておきながら図々しいと思われたのかもしれない。自分のような人間が願いを言うなど烏滸がましいことだった。青藍なら受け入れてくれるような気がして、つい口走ってしまったけれど、言うべきではなかった。

「も、申し訳ございませ、ん?」

 最後まで言い切るよりも早く、青藍は先程までと同じように春麗の頭を自身の肩に載せるとその頭を抱き込むように腕を回した。

「何を謝っている」
「え、あ、わ、私が図々しいことを申し上げたから、お怒りになったの、かと」
「怒ってなどおらん」
「ですが、先程……」
「あれは」

 青藍は珍しく口ごもった。一体どうしたのだろうと顔を上げようとしたが、頭は青藍の肩に押しつけられているため動かすこともできない。なんとか視線だけでもそちらに向けると、そこには苦虫を噛み潰したような青藍の顔があった。

「主上?」
「……お前が何か頼ってきたと思ったら姜水月のことだったから落胆しただけだ」
「えっと、それは……申し訳、ございません?」
「謝るな」

 苦々しく言う青藍に、どこからか「くっ」という笑いをかみ殺したような声が聞こえてきた。今のは、と春麗が不思議に思うよりも早く青藍の声が響いた。

「浩然」
「……はっ」
「お前、今笑ったな」
「いえ、そのようなことは」
「……覚えておけ」

 背筋も凍るような冷たい声、のはずなのに二人のやりとりがどこかおかしくてつい笑いそうになるのを必死に堪えたが、そんな春麗の態度は青藍には見え見えだったようで冷たい視線が向けられた。

「春麗」
「す、すみません」
「それ以上笑うのなら、その口を俺が塞いでしまうぞ」

 いいのか? と、詰め寄られればよくないとも言えず、かといって近づいてくる顔を真正面から見続けることもできず、咄嗟に青藍の肩に春麗は自分の顔を(うず)めた。

 何か言われるかと思ったが、頭上から聞こえてくるのは青藍のため息だった。

「これが無自覚だというから恐ろしい」
「どういう……?」

 顔を上げて青藍を窺ったが、表情からは何を考えているかわからなかった。わかったのは肩越しに見えた浩然が笑いを堪えるように口元を手で隠していることだけだった。

「何でもない。とにかく、姜水月の警護についてはこちらで手配しておくから案ずるな」
「ありがとうございます」

 これで水月の身の安全は保証された。あとは水月から桃燕が関わっているという証言を得て、突きつけるだけだ。もしかしたら何か言ってくるかもしれないが、少なくとも春麗がすることに巻き込まれ、水月に危険が及ぶことだけは避けられるはずだ。

「くれぐれも無理はしないようにな」

 口に出さずとも春麗の考えていることがわかるのか、青藍は苦笑いを浮かべると引き寄せた春麗の頭に自分の頭を載せた。甘えるようなその仕草に、愛おしさを感じる。この人に恥じない自分でありたい。大切な人を守れる自分でありたい。

 春麗の胸の奥に、少しずつ新たな感情が芽生え始めていた。