その日も、朝から殿舎の前に枯れた草木が置かれ、春麗はなんとも言えない憂鬱な気分を抱えていた。一つ一つは取るに足らない悪戯なのに、こう何日も続くとどうにも嫌な気分になる。
この鬱々とした気分を晴らすためにも、春麗は庭園へと向かった。綺麗に咲く花々を見れば少しは気が紛れるかもしれないと思ったからだ。
庭園では金糸梅や美容柳の花が咲き誇り、見頃を迎えていた。今朝方降った雨の露が、花弁に残っているのが見えた。そっと指先で雫を拭ってやると、雨露は春麗の指を伝い地面に吸い込まれるように落ちていった。黄色い小さな花はまるでどんよりと曇った春麗の心を晴らす太陽のようだった。
無心で花を見つめていると、どこからか声が聞こえた。
「周佳蓉」
その声のする方に視線を向けると、そこには女官の姿があった。何か佳蓉に用があるらしく耳打ちをする。その女官の言葉に佳蓉は一瞬、困ったような表情を浮かべた。
「何かあったの?」
「それが、すぐそこで酷い怪我をした女官がいるらしく、助けて欲しいとのことで」
佳蓉は女官から聞いた言葉を春麗に伝えながらも、言葉は尻すぼみになっていく。
「それで何を迷っているの? 困っている人がいるなら助けてあげて」
「ですが、私以外の人間でも問題ないかと。私は、春麗様の侍女。春麗様に付き従うのが仕事です」
確かに佳蓉の言うことはもっともだ。
「でも、気になるのでしょう?」
「それは……」
佳蓉に世話になるようになってから早五か月以上が経つ。佳蓉が春麗のことをわかるようになってきたのと同じように、春麗も佳蓉のことがだんだんとわかるようになってきた。
「ね、佳蓉。私はまだしばらくここで花を見ているから、その間その困っている女官のところに行ってあげてくれないかな」
「ですが……」
「大丈夫、心配しないで」
しばらく悩んだあと「承知致しました」と苦々しく佳蓉は言った。
「様子を確認致しましたらすぐに戻って参りますので、絶対にここから離れないでくださいね」
「わかったわ。大丈夫よ」
春麗が頷いたのを確認すると、後ろ髪を引かれるように振り返りながらも佳蓉は「早く、急いで」と急かされ、女官のあとをついて行った。残された春麗は、佳蓉に言った通り、大人しく花々を見ていた。小さな花々を見ていると、後ろで衣擦れの音がした。振り返るとそこには桃燕の姿があった。
目が合った、はずだ。春麗は礼を取るが、まるで春麗に気付かなかったとでもいうように、桃燕はツンと顔を背けた。
そして、春麗のそばを通り過ぎようとした。どうやら庭園を出て行くようだ。道を空けようと端に避けた春麗だったが、不意に桃燕の身体がよろめくのが見えた。桃燕は体勢を崩し、春麗のほうへと倒れ込んでくる。ぶつかる、と思った時にはまるで突き飛ばされたような衝撃が春麗を襲った。
「きゃっ」
気付けば春麗は地面に座り込んでいた。倒れ込んできたと思った桃燕は何食わぬ顔で直立し、春麗を見下ろしていた。
ああ、よかった。そう言おうと思った春麗の耳に桃燕の侍女の声が聞こえた。
「桃燕様、大丈夫でございますか?」
「え、ええ。私は大丈夫よ」
「楊春麗、なんて酷いことをなさるのです!」
「え?」
咎めるような視線を向けてくる桃燕の侍女に、春麗は戸惑った。ふらついてきた桃燕を受け止めきれなかったことを責められているのだろうか。だとしたら確かに申し訳ないと思うけれど、今のは……。
「あなたがそのようなところにいるから、桃燕様は避けようとなされて体勢を崩されたのです。お怪我でもされていたらどうするつもりです!」
「す、すみません」
染みついた習性というのはなかなか厄介なもので、厳しい口調で言われた春麗は反射的に謝ってしまっていた。その態度に気分をよくしたのか、桃燕はふっと笑った。
「それくらいにしなさい、映雪」
「桃燕様。ですが、」
「その者もおそらく故意ではないのでしょう。ですが、宮婢同然の者がこのような場所に立ち入るのも、それから上級妃に対して礼を尽くさぬ態度もよろしくないわ。わかったわね、楊春麗」
「……申し訳、ございません」
まるでそうするのが当然とばかりに、春麗は頭を下げた。そんな春麗の頭上に、桃燕の侍女たちの嘲笑う声が聞こえた。
「いい気味よ」
「本当に醜いですわ」
「その程度でよく桃燕様に楯突こうなんて思いましたわね」
「溝鼠のようですわ」
悪意の込められた声に、春麗は自分の姿を見た。転んだ場所が悪かったのか、春麗が座り込んだ場所のすぐそばには大きなぬかるみがあった。今朝方降った雨のせいで地面はぬかるみ、水溜まりができていたようだ。そのせいで春麗の襦裙の裾は泥まみれになっていた。
「自分の立場を弁えなさいと以前も言ったわよね」
「…………」
「次はこんなものじゃ済まないわよ。身の振り方を考えなさい」
それだけ言い捨てると、桃燕は今度こそ庭園をあとにした。
誰もいなくなった庭園で、春麗はため息を漏らした。これくらいの嫌がらせは生家にいた頃のそれに比べればなんてことはないけれど。
春麗は辺りを見回す。幸い、まだ佳蓉が戻ってくる気配はなかった。
おそらく、先程佳蓉を呼びに来た女官も桃燕の息がかかった者だろう。だとしても、自分が離れた隙に春麗が嫌がらせを受けたとなれば佳蓉は汚れた襦裙を見て、自分のせいだと責任を感じてしまうはずだ。それだけは避けたかった。
どうしたものか……。
いい考えは思い浮かばず、かといってこのまま座り込んでいても埒があかない。ぬかるんだ地面に手をつきなんとか立ち上がろうとした。
「大丈夫ですか?」
「え?」
聞き覚えのないその声に顔を上げると、黒い髪を双鬟髻に結った少女が心配そうに春麗を見つめていた。質素な襦裙を身に纏ったその少女は、春麗に手を差し伸べた。
「あの?」
「手を」
「え、でも」
「大丈夫ですから」
一瞬、躊躇ったものの引きそうにない少女の言葉に甘え、手を伸ばそうとしたが、春麗は自分の手が泥で汚れていることに気付いた。起き上がろうとぬかるみに手をついた時に汚してしまったようだ。この手では目の前の少女も汚してしまう。そう思って手を引こうとしたが、それより早く少女は春麗の手を掴んだ。
「えっ」
戸惑う春麗をよそに、少女は春麗の身体を引き上げた。
「わっ、あ、ありがとうございます」
「いえ。……ああっ、襦裙にも汚れが」
「あ、はい。そうなんです」
「よければこちら、私に落とさせてくださいませんか?」
「え?」
少女の言葉に、春麗は戸惑いを隠せなかった。そもそも、この少女は一体誰なのだろう。
「あ、申し遅れました。私、姜水月と申します。宝林の位を賜っております」
「姜宝林様……。私は楊春麗と申します。えっと、位階は賜ってなくて……その」
宝林、ということは八十一御妻のうちの一つ、正六品の品格を賜っている。桃燕の昭儀に比べると低くはあるが、それでも位階なしの春麗よりは遙かに上位だった。
そもそも後宮で、位階なしで自由に振る舞っている人間などおそらく春麗以外にはいないはずだ。なんと説明すればいいのかわからず、春麗は口ごもってしまう。そんな春麗に、水月は優しく微笑んだ。
「存じております。春麗様、とお呼びしてもよろしいでしょうか? 私のことも、水月とお呼び頂ければ」
「水月様……」
「はい」
はにかみながら笑う水月に、春麗も笑みがこぼれた。春麗は水月の手引きで水場へと移動した。井戸で水を汲み桶に入れると、水月は春麗の襦裙の汚れを濡らした手巾で落としていく。幸い、汚れたのは襦裙の裾のみだったようで、水月のおかげで大部分の汚れが綺麗に落ちた。
「凄い! ありがとうございます」
「いえ、これが私の仕事ですから」
はにかむ水月につられて春麗も笑みを浮かべた。
「あの……」
「春麗様!」
「あ、佳蓉だ」
どこからか佳蓉の声が聞こえ、春麗は慌てて立ち上がった。春麗の姿を見つけた佳蓉は、駆け寄ってくる。
「春麗様! ああ、やっと見つけました。今までどこにいらっしゃったのですか」
「ご、ごめんね。その、ちょっと色々あって。それより佳蓉、知り合いの女官は大丈夫だったの?」
あれは春麗から佳蓉を引き離すための狂言ではないかと、春麗は考えていた。それでも、もしかしたら本当に怪我をしている女官がいたのかもしれない。ううん、それどころか佳蓉を呼び出すために本当に誰かを怪我させたのかもしれない。そこまでするとは思いたくはないが。
春麗の言葉に、佳蓉は「申し訳ございません!」と叩頭した。
「怪我をしたという女官の元に駆けつけてみればそこには誰もおらず……。もしかしたら移動したのかもしれないという言葉を信じ、辺りを探してみたのですがどこにもおりませんでした」
「そっか、ならよかった。ね、ほら顔上げて?」
そう言うと春麗は佳蓉の手を取り立ち上がらせた。安心して微笑む春麗に、佳蓉は困惑したような表情を向けた。
「どういう……?」
「だって、いなかったってことは佳蓉の顔見知りの女官は、怪我をしていなかったってことでしょ。よかった」
「よいわけがございません! このような嘘に騙されてもしも春麗様に何かあったら私は……」
そこまで言って、佳蓉は春麗の手首が汚れていることに気付いた。春麗も、佳蓉の視線が自分の手に向けられていることに気付き、慌てて隠すが後の祭りだった。
「春麗様、先程『ちょっと色々あって』とおっしゃっていましたが、それはその手首の汚れと関係がございますか?」
「それ、は」
なんと誤魔化したものか、と春麗は頬を冷や汗が伝うのを感じた。掌の汚れは慌てて洗ったものの、手首にも泥が飛んでいたとは思っていなかった。佳蓉の顔を盗み見るが、どうにも逃げられそうになかった。
「その、庭園で転んでしまって」
「お怪我は?」
「ううん、汚れただけよ」
「安心致しました」
安堵するように息を吐く佳蓉に、心配させてしまったことを申し訳なく思うと共に、これでなんとか桃燕とのことは気付かれずに済んだと安心したが、佳蓉は春麗が思うほど甘くはなかった。
「ですが、何故転ばれたのですか? あそこは以前、主上の命により石ころ一つも残っていない状態です。体勢を崩すにしても段差などはありませんし。誰かに突き飛ばされでもしない限り……」
そんな、まさか。声に出さなくても、佳蓉の言葉が聞こえてくるようだった。
「突き飛ばすために、私を遠ざけたのですか。怪我人がいると嘘をついて」
「佳蓉、落ち着いて。私は大丈夫だから」
「ですが!」
「本当に大丈夫。それにね、転んでしまって困っていたところを水月様に助けてもらったの」
話の矛先を変えるため、春麗は隣に立ち尽くしていた水月を佳蓉に紹介した。突然、話を向けられた水月は春麗の言葉に戸惑いながら言った。
「助けただなんてそんな。私はたいしたことはしておりません」
「そんなことないです。水月様がいらっしゃらなければ、今も私はあの場所で困っていたと思います」
春麗と水月のやりとりを黙って見ていた佳蓉だったけれど、お互いに譲らない二人の姿にコホンと咳払いをすると頭を下げた。
「姜宝林様ですね」
「あれ? 佳蓉、水月様を知っているの?」
「もちろん存じ上げております。姜家は代々官吏を輩出している家柄で、姜宝林様のお父上もお兄様方も皆、官吏をされておいでです」
どうやら春麗が知らなかっただけで、水月は名家の出のようだった。「そのようなことは」と水月は否定しているが、その物言いすら品位を感じる。何一つとして教育を施されることなく、家婢同然に育てられた春麗とは雲泥の差だ。
みっともなさで一歩後ろへと下がりそうになる春麗の隣で、佳蓉は水月へ深々と頭を下げた。
「春麗様をお助けくださってありがとうございます」
「い、いえ。頭を上げてください。私は本当にたいしたことはしておりません。春麗様もお気になさらないでください」
「ですが、それでは春麗様のお気持ちが収まりません。と、いうことで春麗様。お世話になったとのことですので、姜宝林様を槐殿にお招きするというのはいかがでしょうか?」
「槐殿に? いいの?」
思いも寄らない佳蓉の言葉に、春麗は顔を輝かせた。槐殿に人を呼ぶ、などと考えたこともなかった。そんなことをしようと思ったこともなかったし、そもそも呼べるような相手もいなかった。だから、水月を招くということが、春麗には特別なことに思えた。
「ええ。姜宝林様のご都合などもあるかと存じますが、いかがでしょうか?」
少し戸惑ったような表情を浮かべていた水月だったが、春麗のあまりに嬉しそうな表情に断れなかったのか「では、お言葉に甘えて」とはにかみながら答えた。
準備があるので四半刻ほどしてから、という水月の言葉に頷くと春麗は軽い足取りで槐殿に戻った。以前、青藍から貰った茶を出すのはどうだろうか。何か出せるような菓子はあっただろうか。そわそわと落ち着かない春麗を、佳蓉は長椅子に座らせた。
「準備は私どもで致しますので、春麗様はこちらで休んでいらしてください」
「でも、私にも何か」
「……これは私からのお願いにございます」
佳蓉の言葉に、春麗は素直に従った。真っ直ぐに春麗を見る佳蓉の表情に、どこか苦しさを感じたから。
春麗は長椅子に座ると、準備をする佳蓉の姿を見つめた。佳蓉は、自分がついていなかったせいで、春麗の身に何かがあったのだとわかっている。嵌められたことも、それを春麗が隠していることも。
わかっているけれど佳蓉は何も言わない。それは春麗が佳蓉に知られたくないと思っている気持ちを尊重してくれたからだ。それなら春麗も、償いたいと思っている佳蓉の気持ちを受け止めたい、そう思ったのだ。
佳蓉の準備が整い、部屋の中に茶のいい匂いが漂い始めた頃、水月は侍女を伴い槐殿を訪れた。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
「いえ、大丈夫です。さあ、中にお入りください」
「わぁ、凄い」
槐殿の中に入った水月は、感嘆の声を上げた。他の殿舎に比べると古めかしく、随分と見窄らしいが、天井まで春麗が磨き上げたおかげで、外から見ただけでは想像もつかないほど綺麗だ。後宮に上がったばかりの頃、部屋から出るなと言い続けた青藍の命のおかげで何もすることのなかった春麗は、誰かが掃除に来るわけでもない槐殿の部屋を一人で磨き上げたのだ。
「外から見た時と随分印象が違いますね」
「ありがとうございます! 頑張った甲斐があります」
「頑張った、甲斐?」
春麗の言葉の意味がわからなかったのか、水月は首を傾げた。部屋で向かい合うように座ると、春麗は「はい」と頷いた。
「私が掃除しました」
「え? ですが、そのようなことを……」
続く言葉は「嘘ですよね?」なのか「本当ですか?」なのかは春麗にはわからない。ただ、水月の視線を向けられ、佳蓉は目を伏せると「その通りでございます」と頷いた。
「凄いですね。そのようなことまで一人でなさるなんて……。いえ、違いますね。申し訳ございません、春麗様。本来であれば私たち女官の仕事であるはずのそのようなことをさせてしまい……」
「い、いえ。気にしないでください。掃除は慣れてましたし、何より本当にすることがなくて、退屈しのぎにしていただけですので」
「ですが……」
申し訳なさそうな表情を浮かべる水月を座らせると、春麗は手元の菓子を差し出した。先日、青藍から贈られた乾蒸餅という菓子だった。
「これ、この間主上がお持ちくださった菓子なのですが、よければ食べてみてください。とても美味しかったのです」
「主上が? そ、それは私のような者が頂いてしまうわけには」
「どうしてです?」
春麗には水月が断る理由がわからなかった。青藍からの贈り物を他の人に渡すのは不敬になるのだろうか。それとも春麗にはわからない他の理由があるのだろうか。それでも春麗は水月に菓子を食べて欲しくて勧めてみると、水月は助けを求めるように佳蓉の方を見た。
「どうしてって……その……」
部屋の隅で控えていた佳蓉は、仕方ないとでも言うように口を開いた。
「こちらは主上が春麗様に下賜されたものですので、姜宝林様が召し上がっても問題ないかと存じます」
「そう、なのでしょうか。……では、一つだけ」
入れ物に手を伸ばし、水月は菓子を一つ摘み口に入れた。ふわっと溶ける食感に驚いたのか水月は目を丸くした。
「美味しい……」
「気に入ってもらえてよかったです。もしよろしければもう一つ召し上がってください」
「ありがとうございます」
嬉しそうに水月は言うと菓子に手を伸ばした。
春麗と水月は、庭園にある秘密の抜け道のことや、その先にある池の周りに咲いている数々の花のことなど、色々な話をした。
生家では罵倒されるか叱責されるのみだった。後宮に上がってからは青藍が訪れる以外に槐殿に来る人間は宦官を除けばないに等しかった。佳蓉が常にそばに控えていてくれるが、侍女と主という一線をこえることは絶対になかったので、このような関係は水月とが初めてだった。
「ふふ、春麗様とお話ししていると、とても楽しいです」
「わ、私もです」
「ああ、でも申し訳ありません。そろそろ戻らなければならなりません」
「あ……」
水月は春麗のように何もせずただ後宮内にいるだけの人間とは違い、きちんとするべきことがある。尚服局に属している水月は、裁縫や針仕事を日々こなしている。妃嬪のいない今も、細々とした裁縫仕事があると話していた。
妃嬪としての責があるわけでもなく、務めがあるわけでもない。ただ日がな一日暇を持て余している春麗とは違うのだ。ここにいつまでもいるわけにはいかない。
「そう、ですか。本日はお付き合いくださいましてありがとうございました」
「いえ、こちらこそ本当に楽しかったです。ありがとうございました」
礼をすると、水月は槐殿をあとにした。残された春麗は、先程まで水月が座っていた椅子を見て、ため息を吐いた。
水月と過ごす時間はとても楽しかった。青藍と過ごすのとはまた違う、今まで知らなかった新しい感情だ。ただ、楽しかっただけに、水月が帰ってしまったあとの部屋はとても寂しい。
「春麗様?」
「ううん、なんでもない」
自分の思考が恥ずかしくなる。寂しいだなんて、何を考えているのだろうか。水月はただ断り切れなくて槐殿に来てくれただけで、会話だって楽しいと思っていたのは春麗だけかもしれない。楽しかったと言ったのは、社交辞令で、ただ春麗に対し礼を尽くしただけなのかもしれない。
勘違いしてはいけない。また一緒に茶を飲みたいなどと、自分のような人間が思ってはいけないのだと、春麗は自分に言い聞かせた。
しかし、そんな春麗の想いに佳蓉は気付いていたのだろう。その日から珍しい菓子や茶が青藍から届くたび「姜宝林様とご一緒に召し上がってはいかがでしょうか?」「姜宝林様に先日の礼をおっしゃってみてはどうでしょう?」と、ことあるごとに水月の名を出すようになっていた。
「水月様は……私などに呼ばれても迷惑ではない、でしょうか」
その日も、青藍が届けてくれた茘枝という南方で取れる珍しい果物を前に、お決まりのように「姜宝林様と――」と佳蓉が言いかけたが、先に春麗の口が動いた。
不安が滲む春麗の言葉に、佳蓉は優しく微笑んだ。
「私などが言うのは差し出がましいことかと思いますが、姜宝林様とご一緒の時の春麗様は本当に楽しそうで、嬉しそうな表情をしていらっしゃいました。姜宝林様の気持ちまではわかりかねますが、あの時のお二人はご友人同士のようで見ていて心温まるものがございました」
「友人……」
家族とも、侍従とも違う友人という関係に、水月となれるのだろうか。なれるのであれば、なりたいと心から願う。ただそれと同時に……。
「私なんかがそんなことを願ってもいいのかな」
昔から父や義母、花琳から言われてきた言葉が呪詛のように身体を、心を縛り付けている。
『呪われた目を持つお前が幸せになれるわけがない。その目が人を殺すのだ』
麻布を外して過ごす今も、春麗は人の目を見られずにいた。この目が人を映すのが怖い。誰かの死を見てしまうことが怖くて怖くて仕方がない。
前髪を引っ張るようにして目元を隠しているのもそのためだった。そんな春麗に、佳蓉は優しく微笑みかける。
「春麗様、誰かがお許しになるとかならないとかではなく、あなた様のお気持ちはどうですか?」
「私の、気持ち?」
「ええ。春麗様がどうなさりたいか、それが一番大事なことだと思います。……目のことを心配されているのはわかりますが――」
「ま、待って。どうしてそれを」
春麗は驚き顔を上げた。呪われた目のことは家族と、それから青藍以外は知らないはずだ。佳蓉にもこの目は見せないように気をつけてきた。なのに、どうして。
戸惑う春麗に佳蓉は小さく微笑んだ。
「私は春麗様の侍女です。その目に何があるのかは存じ上げませんが、それでも春麗様が目のことを気になさって人目を、いいえ、人を見ることを避けていらっしゃることくらいわかります」
「佳蓉……」
「その目に何があるのか、私にはわかりません。ですが、そんな私にもわかることが一つだけあります。その目を理由に、あなた様が逃げている、ということです」
「私が、逃げている」
前髪越しに佳蓉の姿を見つめる。佳蓉は真っ直ぐに春麗を見つめ返していた。
「ええ。春麗様は逃げています。自分自身と向き合うことからも、そして一歩踏み出すことからも」
「逃げている」春麗はその言葉を繰り返した。逃げているのだろうか。逃げていたのだろうか。この目を家族は恐れていた。
しかし、それ以上に恐れていたのは春麗自身なのかもしれない。この目があるから人に受け入れられない、虐げられても仕方ない、この目があるから。私のせいじゃない。私が受け入れられないのではなく、この目が受け入れられないのだと、そう思うことで自分自身を守り続けてきたのかもしれない。そして、今も。
「一歩、踏み出して、いいのかな」
「それはあなた様が決めることです。ですが、私は春麗様がそれを望むのであれば一歩踏み出す勇気を持つことも大事かと思います。……一介の侍女が、差し出がましいことを申しましたこと、誠に申し訳ありませんでした」
言い終えると、佳蓉は深く腰を折り頭を下げた。そんな佳蓉の肩に春麗は触れた。
「ううん、言いにくいことを言ってくれてありがとう」
顔を上げた佳蓉に春麗は微笑みかけると、水月への言付けを頼んだ。一歩踏み出したい。この目がある限り、春麗に死はついて回る。
しかし、それと春麗自身が全てから目を背け、遠ざけることは決して同じではないはずだ。
言付けを伝える佳蓉を見送ると、春麗は窓から空を見上げた。大空へ飛び立つ鳥の姿が見える。
「あんなふうに私も、飛び立つことができるのかな」
春麗の呟きに呼応するように、一羽また一羽と飛び立っていった。
この鬱々とした気分を晴らすためにも、春麗は庭園へと向かった。綺麗に咲く花々を見れば少しは気が紛れるかもしれないと思ったからだ。
庭園では金糸梅や美容柳の花が咲き誇り、見頃を迎えていた。今朝方降った雨の露が、花弁に残っているのが見えた。そっと指先で雫を拭ってやると、雨露は春麗の指を伝い地面に吸い込まれるように落ちていった。黄色い小さな花はまるでどんよりと曇った春麗の心を晴らす太陽のようだった。
無心で花を見つめていると、どこからか声が聞こえた。
「周佳蓉」
その声のする方に視線を向けると、そこには女官の姿があった。何か佳蓉に用があるらしく耳打ちをする。その女官の言葉に佳蓉は一瞬、困ったような表情を浮かべた。
「何かあったの?」
「それが、すぐそこで酷い怪我をした女官がいるらしく、助けて欲しいとのことで」
佳蓉は女官から聞いた言葉を春麗に伝えながらも、言葉は尻すぼみになっていく。
「それで何を迷っているの? 困っている人がいるなら助けてあげて」
「ですが、私以外の人間でも問題ないかと。私は、春麗様の侍女。春麗様に付き従うのが仕事です」
確かに佳蓉の言うことはもっともだ。
「でも、気になるのでしょう?」
「それは……」
佳蓉に世話になるようになってから早五か月以上が経つ。佳蓉が春麗のことをわかるようになってきたのと同じように、春麗も佳蓉のことがだんだんとわかるようになってきた。
「ね、佳蓉。私はまだしばらくここで花を見ているから、その間その困っている女官のところに行ってあげてくれないかな」
「ですが……」
「大丈夫、心配しないで」
しばらく悩んだあと「承知致しました」と苦々しく佳蓉は言った。
「様子を確認致しましたらすぐに戻って参りますので、絶対にここから離れないでくださいね」
「わかったわ。大丈夫よ」
春麗が頷いたのを確認すると、後ろ髪を引かれるように振り返りながらも佳蓉は「早く、急いで」と急かされ、女官のあとをついて行った。残された春麗は、佳蓉に言った通り、大人しく花々を見ていた。小さな花々を見ていると、後ろで衣擦れの音がした。振り返るとそこには桃燕の姿があった。
目が合った、はずだ。春麗は礼を取るが、まるで春麗に気付かなかったとでもいうように、桃燕はツンと顔を背けた。
そして、春麗のそばを通り過ぎようとした。どうやら庭園を出て行くようだ。道を空けようと端に避けた春麗だったが、不意に桃燕の身体がよろめくのが見えた。桃燕は体勢を崩し、春麗のほうへと倒れ込んでくる。ぶつかる、と思った時にはまるで突き飛ばされたような衝撃が春麗を襲った。
「きゃっ」
気付けば春麗は地面に座り込んでいた。倒れ込んできたと思った桃燕は何食わぬ顔で直立し、春麗を見下ろしていた。
ああ、よかった。そう言おうと思った春麗の耳に桃燕の侍女の声が聞こえた。
「桃燕様、大丈夫でございますか?」
「え、ええ。私は大丈夫よ」
「楊春麗、なんて酷いことをなさるのです!」
「え?」
咎めるような視線を向けてくる桃燕の侍女に、春麗は戸惑った。ふらついてきた桃燕を受け止めきれなかったことを責められているのだろうか。だとしたら確かに申し訳ないと思うけれど、今のは……。
「あなたがそのようなところにいるから、桃燕様は避けようとなされて体勢を崩されたのです。お怪我でもされていたらどうするつもりです!」
「す、すみません」
染みついた習性というのはなかなか厄介なもので、厳しい口調で言われた春麗は反射的に謝ってしまっていた。その態度に気分をよくしたのか、桃燕はふっと笑った。
「それくらいにしなさい、映雪」
「桃燕様。ですが、」
「その者もおそらく故意ではないのでしょう。ですが、宮婢同然の者がこのような場所に立ち入るのも、それから上級妃に対して礼を尽くさぬ態度もよろしくないわ。わかったわね、楊春麗」
「……申し訳、ございません」
まるでそうするのが当然とばかりに、春麗は頭を下げた。そんな春麗の頭上に、桃燕の侍女たちの嘲笑う声が聞こえた。
「いい気味よ」
「本当に醜いですわ」
「その程度でよく桃燕様に楯突こうなんて思いましたわね」
「溝鼠のようですわ」
悪意の込められた声に、春麗は自分の姿を見た。転んだ場所が悪かったのか、春麗が座り込んだ場所のすぐそばには大きなぬかるみがあった。今朝方降った雨のせいで地面はぬかるみ、水溜まりができていたようだ。そのせいで春麗の襦裙の裾は泥まみれになっていた。
「自分の立場を弁えなさいと以前も言ったわよね」
「…………」
「次はこんなものじゃ済まないわよ。身の振り方を考えなさい」
それだけ言い捨てると、桃燕は今度こそ庭園をあとにした。
誰もいなくなった庭園で、春麗はため息を漏らした。これくらいの嫌がらせは生家にいた頃のそれに比べればなんてことはないけれど。
春麗は辺りを見回す。幸い、まだ佳蓉が戻ってくる気配はなかった。
おそらく、先程佳蓉を呼びに来た女官も桃燕の息がかかった者だろう。だとしても、自分が離れた隙に春麗が嫌がらせを受けたとなれば佳蓉は汚れた襦裙を見て、自分のせいだと責任を感じてしまうはずだ。それだけは避けたかった。
どうしたものか……。
いい考えは思い浮かばず、かといってこのまま座り込んでいても埒があかない。ぬかるんだ地面に手をつきなんとか立ち上がろうとした。
「大丈夫ですか?」
「え?」
聞き覚えのないその声に顔を上げると、黒い髪を双鬟髻に結った少女が心配そうに春麗を見つめていた。質素な襦裙を身に纏ったその少女は、春麗に手を差し伸べた。
「あの?」
「手を」
「え、でも」
「大丈夫ですから」
一瞬、躊躇ったものの引きそうにない少女の言葉に甘え、手を伸ばそうとしたが、春麗は自分の手が泥で汚れていることに気付いた。起き上がろうとぬかるみに手をついた時に汚してしまったようだ。この手では目の前の少女も汚してしまう。そう思って手を引こうとしたが、それより早く少女は春麗の手を掴んだ。
「えっ」
戸惑う春麗をよそに、少女は春麗の身体を引き上げた。
「わっ、あ、ありがとうございます」
「いえ。……ああっ、襦裙にも汚れが」
「あ、はい。そうなんです」
「よければこちら、私に落とさせてくださいませんか?」
「え?」
少女の言葉に、春麗は戸惑いを隠せなかった。そもそも、この少女は一体誰なのだろう。
「あ、申し遅れました。私、姜水月と申します。宝林の位を賜っております」
「姜宝林様……。私は楊春麗と申します。えっと、位階は賜ってなくて……その」
宝林、ということは八十一御妻のうちの一つ、正六品の品格を賜っている。桃燕の昭儀に比べると低くはあるが、それでも位階なしの春麗よりは遙かに上位だった。
そもそも後宮で、位階なしで自由に振る舞っている人間などおそらく春麗以外にはいないはずだ。なんと説明すればいいのかわからず、春麗は口ごもってしまう。そんな春麗に、水月は優しく微笑んだ。
「存じております。春麗様、とお呼びしてもよろしいでしょうか? 私のことも、水月とお呼び頂ければ」
「水月様……」
「はい」
はにかみながら笑う水月に、春麗も笑みがこぼれた。春麗は水月の手引きで水場へと移動した。井戸で水を汲み桶に入れると、水月は春麗の襦裙の汚れを濡らした手巾で落としていく。幸い、汚れたのは襦裙の裾のみだったようで、水月のおかげで大部分の汚れが綺麗に落ちた。
「凄い! ありがとうございます」
「いえ、これが私の仕事ですから」
はにかむ水月につられて春麗も笑みを浮かべた。
「あの……」
「春麗様!」
「あ、佳蓉だ」
どこからか佳蓉の声が聞こえ、春麗は慌てて立ち上がった。春麗の姿を見つけた佳蓉は、駆け寄ってくる。
「春麗様! ああ、やっと見つけました。今までどこにいらっしゃったのですか」
「ご、ごめんね。その、ちょっと色々あって。それより佳蓉、知り合いの女官は大丈夫だったの?」
あれは春麗から佳蓉を引き離すための狂言ではないかと、春麗は考えていた。それでも、もしかしたら本当に怪我をしている女官がいたのかもしれない。ううん、それどころか佳蓉を呼び出すために本当に誰かを怪我させたのかもしれない。そこまでするとは思いたくはないが。
春麗の言葉に、佳蓉は「申し訳ございません!」と叩頭した。
「怪我をしたという女官の元に駆けつけてみればそこには誰もおらず……。もしかしたら移動したのかもしれないという言葉を信じ、辺りを探してみたのですがどこにもおりませんでした」
「そっか、ならよかった。ね、ほら顔上げて?」
そう言うと春麗は佳蓉の手を取り立ち上がらせた。安心して微笑む春麗に、佳蓉は困惑したような表情を向けた。
「どういう……?」
「だって、いなかったってことは佳蓉の顔見知りの女官は、怪我をしていなかったってことでしょ。よかった」
「よいわけがございません! このような嘘に騙されてもしも春麗様に何かあったら私は……」
そこまで言って、佳蓉は春麗の手首が汚れていることに気付いた。春麗も、佳蓉の視線が自分の手に向けられていることに気付き、慌てて隠すが後の祭りだった。
「春麗様、先程『ちょっと色々あって』とおっしゃっていましたが、それはその手首の汚れと関係がございますか?」
「それ、は」
なんと誤魔化したものか、と春麗は頬を冷や汗が伝うのを感じた。掌の汚れは慌てて洗ったものの、手首にも泥が飛んでいたとは思っていなかった。佳蓉の顔を盗み見るが、どうにも逃げられそうになかった。
「その、庭園で転んでしまって」
「お怪我は?」
「ううん、汚れただけよ」
「安心致しました」
安堵するように息を吐く佳蓉に、心配させてしまったことを申し訳なく思うと共に、これでなんとか桃燕とのことは気付かれずに済んだと安心したが、佳蓉は春麗が思うほど甘くはなかった。
「ですが、何故転ばれたのですか? あそこは以前、主上の命により石ころ一つも残っていない状態です。体勢を崩すにしても段差などはありませんし。誰かに突き飛ばされでもしない限り……」
そんな、まさか。声に出さなくても、佳蓉の言葉が聞こえてくるようだった。
「突き飛ばすために、私を遠ざけたのですか。怪我人がいると嘘をついて」
「佳蓉、落ち着いて。私は大丈夫だから」
「ですが!」
「本当に大丈夫。それにね、転んでしまって困っていたところを水月様に助けてもらったの」
話の矛先を変えるため、春麗は隣に立ち尽くしていた水月を佳蓉に紹介した。突然、話を向けられた水月は春麗の言葉に戸惑いながら言った。
「助けただなんてそんな。私はたいしたことはしておりません」
「そんなことないです。水月様がいらっしゃらなければ、今も私はあの場所で困っていたと思います」
春麗と水月のやりとりを黙って見ていた佳蓉だったけれど、お互いに譲らない二人の姿にコホンと咳払いをすると頭を下げた。
「姜宝林様ですね」
「あれ? 佳蓉、水月様を知っているの?」
「もちろん存じ上げております。姜家は代々官吏を輩出している家柄で、姜宝林様のお父上もお兄様方も皆、官吏をされておいでです」
どうやら春麗が知らなかっただけで、水月は名家の出のようだった。「そのようなことは」と水月は否定しているが、その物言いすら品位を感じる。何一つとして教育を施されることなく、家婢同然に育てられた春麗とは雲泥の差だ。
みっともなさで一歩後ろへと下がりそうになる春麗の隣で、佳蓉は水月へ深々と頭を下げた。
「春麗様をお助けくださってありがとうございます」
「い、いえ。頭を上げてください。私は本当にたいしたことはしておりません。春麗様もお気になさらないでください」
「ですが、それでは春麗様のお気持ちが収まりません。と、いうことで春麗様。お世話になったとのことですので、姜宝林様を槐殿にお招きするというのはいかがでしょうか?」
「槐殿に? いいの?」
思いも寄らない佳蓉の言葉に、春麗は顔を輝かせた。槐殿に人を呼ぶ、などと考えたこともなかった。そんなことをしようと思ったこともなかったし、そもそも呼べるような相手もいなかった。だから、水月を招くということが、春麗には特別なことに思えた。
「ええ。姜宝林様のご都合などもあるかと存じますが、いかがでしょうか?」
少し戸惑ったような表情を浮かべていた水月だったが、春麗のあまりに嬉しそうな表情に断れなかったのか「では、お言葉に甘えて」とはにかみながら答えた。
準備があるので四半刻ほどしてから、という水月の言葉に頷くと春麗は軽い足取りで槐殿に戻った。以前、青藍から貰った茶を出すのはどうだろうか。何か出せるような菓子はあっただろうか。そわそわと落ち着かない春麗を、佳蓉は長椅子に座らせた。
「準備は私どもで致しますので、春麗様はこちらで休んでいらしてください」
「でも、私にも何か」
「……これは私からのお願いにございます」
佳蓉の言葉に、春麗は素直に従った。真っ直ぐに春麗を見る佳蓉の表情に、どこか苦しさを感じたから。
春麗は長椅子に座ると、準備をする佳蓉の姿を見つめた。佳蓉は、自分がついていなかったせいで、春麗の身に何かがあったのだとわかっている。嵌められたことも、それを春麗が隠していることも。
わかっているけれど佳蓉は何も言わない。それは春麗が佳蓉に知られたくないと思っている気持ちを尊重してくれたからだ。それなら春麗も、償いたいと思っている佳蓉の気持ちを受け止めたい、そう思ったのだ。
佳蓉の準備が整い、部屋の中に茶のいい匂いが漂い始めた頃、水月は侍女を伴い槐殿を訪れた。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
「いえ、大丈夫です。さあ、中にお入りください」
「わぁ、凄い」
槐殿の中に入った水月は、感嘆の声を上げた。他の殿舎に比べると古めかしく、随分と見窄らしいが、天井まで春麗が磨き上げたおかげで、外から見ただけでは想像もつかないほど綺麗だ。後宮に上がったばかりの頃、部屋から出るなと言い続けた青藍の命のおかげで何もすることのなかった春麗は、誰かが掃除に来るわけでもない槐殿の部屋を一人で磨き上げたのだ。
「外から見た時と随分印象が違いますね」
「ありがとうございます! 頑張った甲斐があります」
「頑張った、甲斐?」
春麗の言葉の意味がわからなかったのか、水月は首を傾げた。部屋で向かい合うように座ると、春麗は「はい」と頷いた。
「私が掃除しました」
「え? ですが、そのようなことを……」
続く言葉は「嘘ですよね?」なのか「本当ですか?」なのかは春麗にはわからない。ただ、水月の視線を向けられ、佳蓉は目を伏せると「その通りでございます」と頷いた。
「凄いですね。そのようなことまで一人でなさるなんて……。いえ、違いますね。申し訳ございません、春麗様。本来であれば私たち女官の仕事であるはずのそのようなことをさせてしまい……」
「い、いえ。気にしないでください。掃除は慣れてましたし、何より本当にすることがなくて、退屈しのぎにしていただけですので」
「ですが……」
申し訳なさそうな表情を浮かべる水月を座らせると、春麗は手元の菓子を差し出した。先日、青藍から贈られた乾蒸餅という菓子だった。
「これ、この間主上がお持ちくださった菓子なのですが、よければ食べてみてください。とても美味しかったのです」
「主上が? そ、それは私のような者が頂いてしまうわけには」
「どうしてです?」
春麗には水月が断る理由がわからなかった。青藍からの贈り物を他の人に渡すのは不敬になるのだろうか。それとも春麗にはわからない他の理由があるのだろうか。それでも春麗は水月に菓子を食べて欲しくて勧めてみると、水月は助けを求めるように佳蓉の方を見た。
「どうしてって……その……」
部屋の隅で控えていた佳蓉は、仕方ないとでも言うように口を開いた。
「こちらは主上が春麗様に下賜されたものですので、姜宝林様が召し上がっても問題ないかと存じます」
「そう、なのでしょうか。……では、一つだけ」
入れ物に手を伸ばし、水月は菓子を一つ摘み口に入れた。ふわっと溶ける食感に驚いたのか水月は目を丸くした。
「美味しい……」
「気に入ってもらえてよかったです。もしよろしければもう一つ召し上がってください」
「ありがとうございます」
嬉しそうに水月は言うと菓子に手を伸ばした。
春麗と水月は、庭園にある秘密の抜け道のことや、その先にある池の周りに咲いている数々の花のことなど、色々な話をした。
生家では罵倒されるか叱責されるのみだった。後宮に上がってからは青藍が訪れる以外に槐殿に来る人間は宦官を除けばないに等しかった。佳蓉が常にそばに控えていてくれるが、侍女と主という一線をこえることは絶対になかったので、このような関係は水月とが初めてだった。
「ふふ、春麗様とお話ししていると、とても楽しいです」
「わ、私もです」
「ああ、でも申し訳ありません。そろそろ戻らなければならなりません」
「あ……」
水月は春麗のように何もせずただ後宮内にいるだけの人間とは違い、きちんとするべきことがある。尚服局に属している水月は、裁縫や針仕事を日々こなしている。妃嬪のいない今も、細々とした裁縫仕事があると話していた。
妃嬪としての責があるわけでもなく、務めがあるわけでもない。ただ日がな一日暇を持て余している春麗とは違うのだ。ここにいつまでもいるわけにはいかない。
「そう、ですか。本日はお付き合いくださいましてありがとうございました」
「いえ、こちらこそ本当に楽しかったです。ありがとうございました」
礼をすると、水月は槐殿をあとにした。残された春麗は、先程まで水月が座っていた椅子を見て、ため息を吐いた。
水月と過ごす時間はとても楽しかった。青藍と過ごすのとはまた違う、今まで知らなかった新しい感情だ。ただ、楽しかっただけに、水月が帰ってしまったあとの部屋はとても寂しい。
「春麗様?」
「ううん、なんでもない」
自分の思考が恥ずかしくなる。寂しいだなんて、何を考えているのだろうか。水月はただ断り切れなくて槐殿に来てくれただけで、会話だって楽しいと思っていたのは春麗だけかもしれない。楽しかったと言ったのは、社交辞令で、ただ春麗に対し礼を尽くしただけなのかもしれない。
勘違いしてはいけない。また一緒に茶を飲みたいなどと、自分のような人間が思ってはいけないのだと、春麗は自分に言い聞かせた。
しかし、そんな春麗の想いに佳蓉は気付いていたのだろう。その日から珍しい菓子や茶が青藍から届くたび「姜宝林様とご一緒に召し上がってはいかがでしょうか?」「姜宝林様に先日の礼をおっしゃってみてはどうでしょう?」と、ことあるごとに水月の名を出すようになっていた。
「水月様は……私などに呼ばれても迷惑ではない、でしょうか」
その日も、青藍が届けてくれた茘枝という南方で取れる珍しい果物を前に、お決まりのように「姜宝林様と――」と佳蓉が言いかけたが、先に春麗の口が動いた。
不安が滲む春麗の言葉に、佳蓉は優しく微笑んだ。
「私などが言うのは差し出がましいことかと思いますが、姜宝林様とご一緒の時の春麗様は本当に楽しそうで、嬉しそうな表情をしていらっしゃいました。姜宝林様の気持ちまではわかりかねますが、あの時のお二人はご友人同士のようで見ていて心温まるものがございました」
「友人……」
家族とも、侍従とも違う友人という関係に、水月となれるのだろうか。なれるのであれば、なりたいと心から願う。ただそれと同時に……。
「私なんかがそんなことを願ってもいいのかな」
昔から父や義母、花琳から言われてきた言葉が呪詛のように身体を、心を縛り付けている。
『呪われた目を持つお前が幸せになれるわけがない。その目が人を殺すのだ』
麻布を外して過ごす今も、春麗は人の目を見られずにいた。この目が人を映すのが怖い。誰かの死を見てしまうことが怖くて怖くて仕方がない。
前髪を引っ張るようにして目元を隠しているのもそのためだった。そんな春麗に、佳蓉は優しく微笑みかける。
「春麗様、誰かがお許しになるとかならないとかではなく、あなた様のお気持ちはどうですか?」
「私の、気持ち?」
「ええ。春麗様がどうなさりたいか、それが一番大事なことだと思います。……目のことを心配されているのはわかりますが――」
「ま、待って。どうしてそれを」
春麗は驚き顔を上げた。呪われた目のことは家族と、それから青藍以外は知らないはずだ。佳蓉にもこの目は見せないように気をつけてきた。なのに、どうして。
戸惑う春麗に佳蓉は小さく微笑んだ。
「私は春麗様の侍女です。その目に何があるのかは存じ上げませんが、それでも春麗様が目のことを気になさって人目を、いいえ、人を見ることを避けていらっしゃることくらいわかります」
「佳蓉……」
「その目に何があるのか、私にはわかりません。ですが、そんな私にもわかることが一つだけあります。その目を理由に、あなた様が逃げている、ということです」
「私が、逃げている」
前髪越しに佳蓉の姿を見つめる。佳蓉は真っ直ぐに春麗を見つめ返していた。
「ええ。春麗様は逃げています。自分自身と向き合うことからも、そして一歩踏み出すことからも」
「逃げている」春麗はその言葉を繰り返した。逃げているのだろうか。逃げていたのだろうか。この目を家族は恐れていた。
しかし、それ以上に恐れていたのは春麗自身なのかもしれない。この目があるから人に受け入れられない、虐げられても仕方ない、この目があるから。私のせいじゃない。私が受け入れられないのではなく、この目が受け入れられないのだと、そう思うことで自分自身を守り続けてきたのかもしれない。そして、今も。
「一歩、踏み出して、いいのかな」
「それはあなた様が決めることです。ですが、私は春麗様がそれを望むのであれば一歩踏み出す勇気を持つことも大事かと思います。……一介の侍女が、差し出がましいことを申しましたこと、誠に申し訳ありませんでした」
言い終えると、佳蓉は深く腰を折り頭を下げた。そんな佳蓉の肩に春麗は触れた。
「ううん、言いにくいことを言ってくれてありがとう」
顔を上げた佳蓉に春麗は微笑みかけると、水月への言付けを頼んだ。一歩踏み出したい。この目がある限り、春麗に死はついて回る。
しかし、それと春麗自身が全てから目を背け、遠ざけることは決して同じではないはずだ。
言付けを伝える佳蓉を見送ると、春麗は窓から空を見上げた。大空へ飛び立つ鳥の姿が見える。
「あんなふうに私も、飛び立つことができるのかな」
春麗の呟きに呼応するように、一羽また一羽と飛び立っていった。