相変わらず春麗は庭で花を()でるか、もしくは部屋の中で一日を過ごしていた。ただ一つ変わったことがある。

「綺麗だな」
「ええ」

 梅桃を見る春麗の隣には青藍の姿があった。以前は一日に一度、春麗の様子を見に来るだけだったのが、今では時間ができると春麗の元を訪れる。二人で花を見たり、庭を散歩したり、部屋の中で二人和やかな時間を過ごしたりと、二人で過ごす時間が増えていた。

「春麗、これを知っているか」

 青藍が差し出す菓子はどれも春麗が食べたことのないものばかりだった。

「存じません」
「そうか。ならば口を開けよ」

 素直に口を開けた春麗の口内に甘味が広がる。初めて味わう菓子の甘さに春麗は動きを止めた。

「どうだ?」
「ふ……あ……」
「美味いか?」

 美味しいという言葉さえ出ず、首を必死に縦に振る春麗に青藍は微笑むと一つもう一つと口に入れてきた。飲み込みきれず(ほお)を膨れさせて(ほお)()る春麗に、青藍は噴き出した。

「ふっ……くっ……くくっ」
「しゅ、しゅじょ……」
「すまん……くっ……ふは……」
「酷いです」

 春麗はお返しとばかりに青藍の手にあった菓子を取ると、そのまま青藍の顔の前に持って行った。

「ん?」
「口、開けてください」
「ほお? 食べさせてくれるのか? ほら」
「なっ」

 口を開けて待たれてしまうと春麗は自分のしようとしたことの恥ずかしさに耐えきれず腕を上げたまま固まってしまった。そんな春麗の態度に青藍は再び笑うと、上げたままになっていた腕をそっと掴んだ。

「え?」
「食べさせてくれるのだろう?」
「まっ……」

 春麗の手首を持ったままその手を自身の口に運び、そして菓子を口に入れた。ご丁寧に春麗の指先についたものまで舐め取り、青藍は口角を上げて笑った。

「甘いな」
「な、な、何をするのですか!」
「食べさせてくれるのではなかったのか?」
「そ、それはそうですが! でも、それは……!」
「春麗が食べさせてくれると美味いな。これからも頼もうか」
「やめてください!」

 喉を鳴らし笑う青藍に、春麗はからかわれたことに気付く。頬を膨らませる春麗に青藍はもう一度笑った。その笑顔に目を奪われる。そして気付けば春麗自身も笑っていた。

 こんなふうに誰かと笑い合える日が来るなんて思ってもいなかった。

 もしかしたら幸せとはこういう時間のことをいうのかもしれない。だとしたら、ずっとこんな時間が続けばいいのに。そう願わずにはいられない。

「春麗」

 もう一粒、菓子を口に放り込まれ嬉しそうに頬張る春麗を、青藍は優しい瞳で見つめる。

「他に何か、お前が好むものがあれば教えてくれ」
「好きな、もの、ですか?」

 そうは言われても、特にそういったものは思い浮かばない。

「えっと……」
「何もないのか? ああ、浩然。お前の妹は春麗と同じ年頃だったな」

 すぐそばで控えていた浩然は、突然声を掛けられたからなのか肩を震わせていた。どうしたのか、と不思議に思ったのは春麗だけではなかったようで、浩然の態度に青藍は眉をひそめた。

 毒を盛られた浩然は、翌々日には今まで通り青藍のそばに付き従っていた。春麗に「ありがとうございました」と深々と頭を下げた時はまだ顔色が悪く感じたが、今はすっかり元気になった。……はずだが、目の前にいる浩然は、何故だかあの日よりもさらに青い顔に見えた。

「どうかしたのか」
「い、いえ。ええ、そうですね。妹は十四ですので、春麗様より四歳ほど年下ではありますが」
「そうなのですね。では、私の妹と同じ年です」
「そうか」

 春麗の言葉に、青藍はどこか曇ったような表情を浮かべている。何か変なことを言ってしまっただろうか。そう思ったけれど、すぐに青藍が浩然に声を掛けたので春麗が口を開くことはなかった。

「浩然、お前の妹の好きな食べ物は」
(なつめ)でしょうか。あとは()(へい)ですとか」
「棗か。春麗、棗は好きか?」
「え、えっと食べたことない、です」

 今度は青藍ばかりか浩然までもが眉をひそめた。

「楊家であれば棗ぐらい」
「えっと、屋敷にはございました。義母や義妹は好んで食べていたかと思います」

 浩然の言葉に、春麗は慌てて付け加えた。このままでは楊家が貴族であるにもかかわらず、棗すら買うことができないほどの貧乏であると思われかねないと考えたからだ。しかし、春麗の言葉に青藍は顔をしかめ、浩然に至ってはため息を吐いた。

「あ、あの」
「浩然、明日。いや、今日このあと槐殿に棗を届けるように手配をしておけ」
「承知致しました」
「で、ですが」

 今でさえよくしてもらっているのに、これ以上何かを求めるのは、と慌てて断ろうとした。そんな春麗に浩然は視線で戒める。その目は「主上の言葉を否定するつもりですか」と言いたげで、春麗は何も言えなくなってしまう。

「浩然、春麗を睨むな」
「睨んでなどおりません」
「そうか? 春麗は怯えているようだぞ」
「それは失礼致しました」

 形だけの謝罪をすると、少し考えたような表情を浮かべ、それから浩然は口を開いた。

「私の妹が今まで食べた中で一番美味しいと言っておりました棗を、槐殿に届けるよう手配させて頂きます」
「ありがとう、ございます」

 浩然の声色があまりにも優しくて一瞬驚いたが、すぐに気付いた。優しさは春麗に向けられたものではなく――。

「浩然様は、妹さんのことをとても可愛いがっていらっしゃるのですね」
「え……」

 戸惑ったような浩然に、青藍は喉を鳴らして笑う。

「浩然の妹への溺愛ぶりにはきっと春麗も驚くぞ」
「主上! ち、違いますからね? 誤解のないよう」
「誤解なものか。何年か前に妹が怪我をしたとかで、仕事も放り出して慌てて帰ったこともあっただろう」
「あ、あれは」

 浩然は必死に何かを言い訳し、それに対し青藍が揶(からか)うように笑う。春麗の前で見せる顔とは違う二人の表情に驚くと同時に微笑ましくなる。

 浩然は幼い頃から青藍の侍従をしていたと以前に聞いたことがある。だからだろうか。まるで親しい友人のように話をする二人の姿を見ていると、見たことのないはずの幼い二人の姿を思い浮かべてしまう。きっと可愛かっただろうな、と頬が緩む。

 そんな春麗の視線に気付いたのか、浩然は眉をひそめた。

「何ですか、その顔は」
「い、いえ。えっと」

 まさか二人の幼い頃を思い浮かべていました、なんて口が裂けても言えるわけがない。

「そ、その妹さんのこと大好きなんだなって思いまして」

 (とっ)()に誤魔化したにしては上手くいったようで、浩然は「そうですね」と笑う。

「……大切な妹ですから」

 そう答える浩然は、今まで見たことのないぐらい優しい表情を浮かべていた。



 青藍たちが後宮を出て間もなく、言っていた通り槐殿には籠いっぱいの棗が届けられた。小卓に置かれたそれを一つ(つま)み頬張ると、甘さが口いっぱいに広がった。先程青藍から貰った菓子とはまた違った甘さだった。

 こんなにも幸せでいいのだろうか、と春麗は心配になる。あまりにも幸せすぎて、今に何か恐ろしいことが起こるのではないか。そんな不安が春麗の胸に湧き上がる。

 そして嫌な予感ほど、的中してしまうのだ。

 数日後、珍しく慌てた様子で佳蓉が部屋へと入ってきた。

「どうかしたの?」
「はい。(おう)(しょう)()様が後宮にお戻りになるとのことです」
「黄昭儀様……?」
「はい。昭儀の位にあらせられる黄桃(とうえん)様です」

 聞き覚えのない名前に首を傾げる。昭儀とは(しょう)()(ほん)(きゅう)(ひん)と呼ばれる位階の中で一番上の位だ。(しょう)(いっ)(ぽん)である四夫人が不在の今、戻ってくるのであれば後宮で一番高い位の妃嬪となる。

 普通、貴族の娘であれば名前を聞けばどこの家の誰か、ということがわかるように最低限教育されているが、春麗は普通ではない。

「黄桃燕様……」と口の中で繰り返す春麗へと説明するように佳蓉は口を開いた。

「黄家は代々高官を輩出する家系で、黄昭儀様は現在十四歳になられます」
「十四……」

 年齢を聞いてふいに花琳を思い出す。十四歳の少女、皆が皆ああだと思っているわけではないけれど、どうしても連想してしまうのを止められない。

 勝手に決めつけて知らないところで嫌悪感を覚えられるなんて失礼にも程がある。春麗は花琳のことは胸の奥に押し込め、佳蓉に尋ねた。

「でも、どうして?」

 死の皇帝と言われる青藍の後宮には、現在妃嬪がほとんどいない。本来であれば後宮には四夫人、九嬪、二十七(せい)()、八十一()(さい)と大勢の妃嬪が住まうが、現状では二十七世婦以上の妃嬪は一人もいない。

 残っているのは八十一御妻以下の女官同然の者と下女や宦官、そして春麗だけだ。個別の殿舎を与えられる正二品以上の妃嬪に限れば一人もいなかった。皆、死の皇帝の噂を恐れ逃げだした。

 噂は噂でしかないと春麗は知っている。だが、大勢の妃嬪が亡くなったのも事実だ。

 何らかの理由で亡くなった者もいれば、家族が心配して連れ戻した者もいると、まだ屋敷にいた時花琳が言っていた。

 それが何故今になって戻ってくるというのだろうか。不思議に思う春麗に佳蓉は困ったような表情を浮かべ、それからおずおずと口を開いた。

「その、それが。どうやら春麗様が次期皇后として後宮に上がられたという噂を聞かれたようで」

 それが気に食わなかったらしい、とは言わなかったけれど表情でなんとなく察しはついた。
家族は反対しなかったのか、それとも反対されてもなお青藍の元に戻りたいと思ったのか、春麗にはわからなかった。

 本当であれば後宮に妃嬪がいないという今の状況がおかしいのだ。もしかすると、春麗が後宮にいることで青藍にあった死の皇帝という噂が真実ではないと知れ渡り始めているのかもしれない。だとしたら、青藍のためにはとてもいいことだと思う。思うのに、何故だろう。ほんの少し胸の奥が痛む気がするのは。

「春麗様?」
「あ、えっと。そう、ね。戻ってこられたら、挨拶に伺わなければいけないわね」

 春麗の言葉に佳蓉は「そうでございますね」と静かに頷いた。できるだけ、その日が遠ければいい。

 そんな春麗の願いも空しく、黄桃燕が後宮に戻ってきたのは、それからたった三日後のことだった。

 その日、後宮はいつもよりも騒がしかったが、後宮の奥も奥、槐殿に住む春麗の元に(けん)(そう)は届かなかった。ただ、佳蓉が朝「本日、黄昭儀様がお戻りになられます」と言っていたので、今日戻ってくることだけは理解していた。

 それでも、戻ってきた当日の忙しい中、挨拶に行くのも迷惑かと春麗はいつも通り庭園で花を愛でていた。庭園では(しゃく)(やく)()()(きょう)(ちく)(とう)といった赤や白の花々を咲かせていた。

 今日ばかりは青藍も来ないだろう。桃燕が戻ってきたのであれば、春麗のような本来妃嬪となる資格も価値もない者を相手にする必要はない。今思えば、青藍の優しさは()()(あわ)れみだったのだ。優しい人、だから。

 願わくば、桃燕にはそんな青藍の優しさを知って欲しい。死の皇帝という噂ではなく本当の青藍の姿を……。

「……っ」

 なんて烏滸がましいことを思ってしまったのだろう。

 春麗は、自分の考えに恥ずかしくなった。まるで、自分の方が青藍をわかっているとでも言いたげだ。ただほんの少しの時間、優しくしてもらったからとこんなことを思うなど……。

「身体を冷やすな」

 その言葉と同時に、春麗の肩をぬくもりが(おお)った。驚き振り返ると、そこには青藍の姿と、そして春麗の肩には()()(ばな)によく似た淡い紫色をした、薄手の(チー)(パオ)がかかっていた。

「どうして、こちらに」
「俺がお前に会いに来るのに理由が必要か?」
「そうではなくて。あの、本日は黄昭儀様がお戻りと聞きましたので、そちらに向かわれるものだと……」

 春麗の言葉に「ああ、そのことか」と青藍は苦々しそうに吐き捨てる。

「戻ってこなくてもよかったのだがな。それでも挨拶はもう終わったから問題ない」
「そうなの、ですね」
「なんだ。お前のところではなく黄昭儀の元へと行ったほうがよかったのか? 今からでも行くか?」
「そ、そんなの嫌です! あっ」

 慌てて否定して、それからそんな自分が恥ずかしくなる。これでは桃燕の元へと行ってしまうのではと、不安に思っていると言っているようなものではないか。

「今のは、言葉の(あや)で……」
「そうなのか?」

 背を向けた春麗の耳元で、青藍の声が聞こえた。肩にかけた旗袍ごと抱きしめられた。

「主上……!?」
「どうした?」
「ど、どうしたって……その……」

 まるで全身が心臓になってしまったかのように、鼓動の音が響いている。耳にかかる青藍の吐息に思わず身体が震える。こんなにも心臓が高鳴っていたら青藍にも聞こえてしまうのではないか、そんなことを春麗が思っていると、耳元で青藍の笑い声が聞こえた。

「そんなに緊張してくれるな」
「無理、です」

 熱くなった顔を隠すように両手で覆い、春麗は首を振る。恥ずかしくて恥ずかしくて、今すぐにどうにかなってしまいそうだった。青藍は「ふっ」と笑い声を漏らすと、春麗から身体を離した。

 離れていくぬくもりを、寂しいと感じてしまう。それと同時に、自分の態度がいかに不敬であったかに気付き慌てて振り向いた。

 けれど、春麗の視線の先で青藍は口元に手を当て、おかしそうに笑っていた。

「主上? あの、どうなさったのですか?」
「ん? いや、お前があまりにも可愛くてな」
「か、可愛いなんて。そんなことありません」
「そうか? お前は可愛い。俺にはどの花よりも()(れん)で可愛く見える」
「そんなこと……ありえません……」

 後宮の庭園に咲く花々はどれも本当に綺麗で愛らしい。そんな花々と比べて自分の方が可愛いなどと、春麗にはとても信じられなかった。

「どうやら俺の言葉の真意は伝わらなかったらしい。どうすればいいと思う、浩然」
「もっと直球で伝えられた方が春麗様にはいいのかと思われます」
「あの、なんの話でしょうか?」

 二人の会話の真意はわからないが、気安い口調に春麗は自分だけが除け者にされているような寂しさを感じる。なんとなく、そんな二人の態度が面白くなくて、春麗は精一杯の不満を滲ませて肩に掛けられていた旗袍を青藍へと差し出した。

「~~っ。これ、お返しします。ありがとうございました」

 一瞬驚いたような表情を浮かべ、それから旗袍を受け取ると、青藍はくつくつと笑った。

「そんな拗ねたような顔をするな。お前しか目に入らないということだ。だから心配することはない」

 春麗の瞳を真っ直ぐに見つめながら、青藍はそっとその頬に触れる。指先から伝わるぬくもりは布越しだった先程よりも、(さえぎ)るものがない分はっきりと伝わってくる。

 翡翠色の瞳に見つめられると、そのまま吸い込まれていきそうだ。少しずつ、青藍が近づいてくるのがわかったが、春麗はまるで何かの呪いにでもかけられたかのように動けずにいた。

 一寸ほどの距離に青藍の顔がある。目を閉じることもできないまま、ただ翡翠色の瞳だけを見つめていた。その時、耳を(つんざ)くような声が庭園に響いた。

「主上!」

 その声に、青藍が()(こつ)に眉をひそめたのが見えた。その表情の理由は、青藍の肩越しにあった。

「主上、こちらにいらっしゃったのですね」
「……黄昭儀」

 ため息と共に、春麗に触れていた手が離れていく。振り返った青藍は、桃燕に向き直った。桃燕が振り返った青藍に跪くと、青藍は冷たい瞳で桃燕を見下ろした。

「どうした」
「いえ、主上が後宮にいらしているとの話を聞きましたので、お会いしたい一心で探し回っておりました。このような場所でお会いできるとは、嬉しく存じます」
「そうか」

 あまりに()()ない青藍の態度にもめげず、話し掛け続ける桃燕の姿を思わず見つめてしまう。そんな春麗の視線に気付いたのか桃燕は驚いたように口を開いた。

「まあ、そこのあなた。女官がこのようなところで何をしているのです。さっさと持ち場に戻りなさい」
「え、あ、わ、私」

 挨拶に行っていないのだから春麗のことを知らなくても不思議はないが、女官と勘違いされてしまうとは思わなかった。以前の襤褸を着ていた頃ならまだしも、今の春麗は()()とは言いがたいもののそれなりの襦裙を身に纏っていた。

 戸惑いは隠せないものの、それでも挨拶をしなければ、と慌てて頭を下げ、口を開こうとしたが、それよりも早く桃燕の声が響く。

「何をしているのです。早くこの場から立ち去りなさいと言っているのです。主上の目前でそのように立ち尽くしているなど、言語道断です」
「あ、あの、私……」

 なんとか説明しよう、そう思いたどたどしく話し始めた春麗の言葉は再び遮られた。しかし、今度は桃燕にではなく青藍に、だ。

「黄昭儀。これは余の妃である。余はこれと一緒の時間を過ごしているのだ。邪魔をしているのはどちらか考えろ」

 青藍の冷たく鋭い声に、春麗は自分に向けられた訳でもないのに身体が震える。しかし、桃燕は笑みを浮かべると青藍に頭を下げた。

「それは申し訳ございません。どこからどう見てもよくて女官、もしかすると宮婢なのでは、と不安に思いまして。そちらの方にも失礼な態度を取り、申し訳ございませんでした」
「い、いえ。お気になさらないでください。私の方こそ、(まぎ)らわしくてすみません」

 慌てて頭を下げ言葉を返す春麗に、桃燕は顔を上げると微笑んだ。二人の様子に、青藍が何か言おうとした時「主上」と浩然の声が聞こえた。

「……が……で、()(きゅう)のことと、使いの者が」

 内容は聞き取れなかったけれど何かあったようで、いつのまにか浩然の後ろには頭を下げる(じゅう)(しゃ)の姿があった。

 一瞬、気遣うように春麗へと視線を向けた青藍はそっと微笑みながら頷くと、浩然へと向き直った。

「戻るぞ」
「はっ」
「では失礼する」

 春麗と桃燕にそう言うと、青藍は後宮をあとにした。挨拶に行く前に会ってしまった桃燕に非礼を()びなければ、と春麗が何か言うより早く、桃燕が口を開いた。

「先程は主上との時間を邪魔してしまい、申し訳ございませんでした」
「い、いえ。私の方こそご挨拶に行くのが遅くなり、申し訳ございません」
「ふふ。お優しいお言葉、ありがとうございます。私は黄桃燕。昭儀の位を(たまわ)っております。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 優しく微笑む桃燕に安心して、春麗も笑みを浮かべた。

「あ、わ、私は楊春麗です。よろしくお願いいたします」
「楊春麗様、ですね。こういう時は位階もお伝え頂けますか? それとも、私などには位階もお教え頂けないということでしょうか?」

 顔を曇らせると、桃燕は悲しげに言う。その態度に、春麗は慌てた。

「ち、違うんです。私、位階を賜っていなくて。なので、ただの春麗、とお呼びくだされば……」
「位階を賜っていない?」

 その瞬間、桃燕の声色が変わったことに春麗は気付いた。

「では、あなたは宮女以下、下女もしくは宮婢と同等かそれ以下ということですわね」
「え……?」

 宮女といっても実家から連れてきた侍女以外は皆、後宮に住む妃嬪だ。ただ階層が下の者は妃嬪として、というよりは上位の妃嬪の宮女となり、各殿舎で侍女のような役割をしている。

 ただし宮女と同じように働く女たちの中に、宮婢と言われるいわゆる罪人の母親や(さい)(しょう)、それから未婚の娘といった女性たちがいた。彼女たちは後宮に入れられるが妃嬪ではなく炊事や裁縫などといった仕事をさせられる。

 桃燕は春麗をそのような者たちと同等だと言っているのだ。

「それは……」

 違います、と言い切れなかったのは確かに妃嬪としての位階を賜っていないという事実と、生家では()()()()たちと一緒に生活し従事していたことが頭を過ったからだ。違う、と本当に言えるのだろうか。

 春麗の態度に桃燕は「ほらね」と言わんばかりに笑みを浮かべた。

「主上にどうやって取り入ったのか知らないけれど、あなたのような下(げせん)な女が主上の隣に立つなんてことは有り得ないわ。身の程を(わきま)えなさい」

 吐き捨てるように言うと桃燕は庭園を出て行く。すれ違いざま、桃燕の肩が春麗の肩に当たり、体勢を崩した春麗はその場に尻餅をついた。

「そうやって()いつくばっているのがお似合いよ」
「春麗様!」

 佳蓉が駆け寄り春麗に手を貸す。そんな二人の姿を嘲笑いながら桃燕とその侍女は去って行った。

 立ち上がると佳蓉が襦裙についた土埃を払ってくれた。以前、小石を全て青藍が撤去させていたため、春麗に怪我などはなかった。しかし、胸の奥に重苦しい何かが残った。

「大丈夫ですか?」
「ええ」
「何と酷いことを。春麗様、主上にお伝えしてお叱り頂きましょう」

 (ふん)(がい)する佳蓉に、春麗は小さく笑った。誰かが自分のために怒ってくれるというのはこんなにもくすぐったい気持ちになるものなのか。

「春麗様?」
「あ、えっと。そう、ね。でもとりあえずもう少し様子を見てみようかなって。揉め事を起こすのもよくないと思うし」
「揉め事を起こしてきているのはあちらですけどね」

 春麗がそうと決めたのであればと、佳蓉はそれ以上何かを言うことはなかった。ここは後宮だしそういうこともあるのだと思う。ただ一人の(ちょう)(あい)を奪い合うのが後宮なのだから。

 そう思えば、ここ数カ月の春麗は恵まれていたのだろう。他に寵愛を受ける妃嬪もおらず、青藍の優しさを一心に受けていたのだ。
けれど、これからは違う。桃燕が戻ってきたということは、少なからずあの優しさは桃燕にも向けられるはずだ。その時も、今のように笑っていられるだろうか。そんな不安が頭を過った。

 しかし、その日以降も青藍は春麗の元へと通った。以前と同じ、いや以前よりも頻繁に二日と開けずに春麗の元を訪れる。ある日は甘い菓子を持って、またある日は珍しい玩具が手に入ったと言って。

 その日も、珍しい果物が手に入ったと春麗に届けられた。珍しく青藍の姿はなく、浩然が持ってきたので不思議に思い尋ねてみた。

「あの、今日は、主上は……」
「急ぎの引見があり、本日はいらっしゃいません。ですが、春麗様にお渡ししたいと言付かって参りました」
「そうだったのですね。ありがとうございます」
「それから、(しばら)く忙しくなるのでなかなか顔を出せなくなると伝えてくれとのことです。それでは」

 春麗に一礼すると、浩然は持ってきた箱を佳蓉に手渡した。それを春麗が受け取ったことを確認すると、浩然は足早に去って行った。中身は何だろう、と思っていると佳蓉は「ほぅっ」とため息を漏らした。

「浩然様に言付けなさるなんて、春麗様のことを本当に思っておいでなのですね」
「そう、なのかしら」
「ええ!」

 首を傾げる春麗に佳蓉にしては珍しく鼻息荒く返事をした。

「浩然様は主上の()(きょう)(だい)でして、今も右腕でいらっしゃいますが、いずれは亡きお父上のように(さい)(しょう)となると言われております」
「凄い方、だったのですね」

 確かに、本来であれば皇帝陛下以外は宦官しか男性は立ち入ることのできないはずの後宮に、浩然は当たり前のように入ってくる。皇帝である青藍の信頼と命令がなければできないはずだ。

 そう考えると浩然が有能であるだけでなく、青藍にとっての特別な人物であるということがわかる。

「乳兄弟、かぁ」

 ふと、春麗は花琳のことを思い出した。半分とはいえ血のつながりのある異母妹。もしも同じ父母を持つ姉妹として生まれていたのなら、こんなふうにはならなかったのだろうか。そんな思っても仕方のないことを考えてしまう。

「佳蓉、少し庭園に行きたいのだけれど、いいかな……?」
「はい。お供致します」

 花琳のことを思い出すとまるであの屋敷にいた時のように胸の奥が苦しくなってくる。気分を変えようと佳蓉を伴って外に出ようとした、その時だった。

「きゃっ」
「え?」
「春麗様は来てはなりません!」

 槐殿の扉を開けた佳蓉が悲鳴を上げた。後に続こうとした春麗を止めると、後ろ手に扉を閉めた。

「どうしたの?」

 真っ青な顔をした佳蓉に尋ねたが、よほど恐ろしいものを見たのか、上手く言葉になっていない。

「佳蓉?」
「あ……申し訳、ございません。その、虫が」
「虫?」
「ええ……。毒のある虫もいるかもしれません。すぐに、見張りの者を連れて参ります。春麗様は絶対に外に出ないでください」

 そうは言われても……。震えている佳蓉をこのまま行かせてもいいものかと春麗は躊躇った。虫が怖くない訳ではないが、震える佳蓉を見ているとまだ自分が向かうほうがいいのではないか、という気持ちになる。

「ねえ、佳蓉。私が行ってこようか?」
「何をおっしゃるのです! 春麗様に行かせるなんてそんなことできません!」
「でも。佳蓉、震えているし……。虫、怖いんじゃないの?」
「それは……」

 震えを必死に押し殺そうとする佳蓉の手を、春麗はそっと握りしめた。

「私なら大丈夫だから。でも、そうね。佳蓉が私一人に行かせるのは、と思うのなら、目を閉じててもいいからついてきてくれたら嬉しいのだけれど」
「……承知致しました」

 まだ佳蓉の声は震えていた。それでも目を閉じることはなく、春麗の先に立って扉に手をかける。ただ反対の手は、今も春麗の手を握りしめたままだ。

「そ、それでは、開けますね」
「ええ」

 一瞬、握りしめた手に力が入ったのがわかった。そっと片側の扉を開けると、隙間から外が見える。薄目を開けた佳蓉が「ひっ」と声を上げたのがわかった。そこにはどこから連れてきたのか生きたままの芋虫や蛙の死骸などが辺り一面に並べられていた。

 こんなところに自然に集まるわけがないので、おそらく誰かが故意にここに運んできたのだろう。一体誰が、と考えた春麗の(のう)()に桃燕の姿が思い浮かんだ。いや、まさか。しかし、時期的にも合いすぎている。

「春麗様、どう致しましょう」

 泣きそうな声で言う佳蓉に、春麗は少し考えてから「(ほうき)ってある?」と尋ねた。

「ありますけど、まさか」
「掃くしかないかなって」

 外開きであればドアを開けるのと同時に虫を追いやることもできたかもしれないが、内開きの扉ではそれも無理だ。

「そ、そのようなことを春麗様にさせるわけには」
「でも、どちらかがやらないと、死骸も混じっているといえどずっと扉の前に虫にいられるわけにもいかないし」
「それは、そうですが」
「大丈夫。ただ、扉を開けるのは佳蓉に頼んでもいいかな? 私はこっちから虫を掃くから」

 一瞬、躊躇したが「わかりました」と、佳蓉は春麗に箒を手渡した。

 受け取った箒を手に、反対側の扉の前に立つ。佳蓉は頷くと、勢いよく扉を開けた。

「えいっ」

 開け放たれた扉の向こうに見える虫たちを箒で思いっきり掃き飛ばす。箒にくっついたらどうしようなどと思っていたけれど、意外と虫たちはくっつかず飛んでいってくれた。

 反対側も同じようにすると、扉の前から虫たちは姿を消した。ただいなくなったのは扉の前だけで、もちろんその向こうには先程の虫たちがいるのだけれど。

 今まで(せい)()で数々の嫌がらせや(しっ)(せき)を受けてきた春麗だったが、さすがに虫に触れたり片付けたりするのは避けたかった。申し訳ないがここは宦官に頑張ってもらおう。

「これなら見張りの人を呼びに行けるかな」
「はい! ありがとうございます! 私が呼びに行って参りますので、春麗様は絶対に部屋の中から出ないでください」

 佳蓉は春麗を言い含めると、槐殿から出て行った。残された春麗は佳蓉の言いつけ通り、殿舎の中に戻る。

 そういえば青藍から貰った果物を見ていなかった、と思い箱を開けると中には赤い小さな果実がいくつも入っていた。一粒口に入れると甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。これは何という果物なのだろう。

 そういえばと、二粒目を口に入れながらふと思った。扉の向こうの虫は、一体いつ用意されたのだろう、と。つい先刻、浩然が来た時は何も言っていなかった。もし虫がいれば春麗に知らせるか、もしくは知らせずに処理してしまうはずだ。それがそのまま置かれていたということは浩然が帰ったのを確認してからわざわざ置いたか、それとも。

「浩然様が置いた、とか?」

 思わず呟いて、それはないと首を振る。浩然には、する理由が見当たらない。やはり理由がある人物と言えば一人しか思い浮かばない。

「やっぱり、黄昭儀様、なのかな」

 先日のやりとりを思い出す。春麗に対し露骨に敵意を向けていたが、証拠がない中で疑うことも問いただすこともできなかった。

 佳蓉には申し訳ないが、虫程度であればこのまま不問にしてしまおう。そう思いながらもう一粒、赤い小さな果実を口に放り込んだ。

 しかし、嫌がらせはこれだけに留まらなかった。度々槐殿の扉の前には虫が置かれ、食事が届かなくなったり、殿舎の入り口前に()(でい)()かれたりするようになった。虫も決まった種類だけではなく、百(むかで)や毒蛇、毒蜘蛛といった触れたり噛まれたりすれば命の危険もあるような虫が並んでいることもあった。その度に佳蓉は宦官を呼びに行く()()になった。

 それでも、実害がなかったことと、どれもくだらない嫌がらせだったので春麗は放っておいた。これくらいのこと、生家でされてきたことに比べればなんてことはなかったからだ。

 ただその態度が、相手の気持ちを刺激したのかもしれない。