槐殿に来訪があったのはその日の夕方だった。先触れの宦官が佳蓉に何かを知らせ、(にわか)に騒がしくなった。

「春麗様、今からこちらに皇太后様がいらっしゃるそうです」
「皇太后様、が?」

 佳蓉の言葉に、驚きのあまり手に持った茶碗を落としそうになった。慌てて小卓にそれを置くと、もう一度確認する。

「皇太后様が、どちらにいらっしゃるの?」
「ですから、槐殿に、でございます」

 少なからず佳蓉も動揺しているようで、いつもよりも言葉尻が厳しくなっている。先程まで春麗が飲んでいた茶碗を片付けると、慌てて部屋の中を整え始めた。春麗も襦裙が汚れていないかを確認し()(はく)を肩にかけた。

 皇帝陛下である青藍に皇后はいない。以前であれば、(けん)()が皇后の役割を兼ねていたと聞くが、皇后どころか上級妃が不在の現在の後宮で、一番権力を持っているのは皇太后である(しゃ)(しゅ)(らん)だった。

 その珠蘭が春麗の殿舎を訪れる。一体、何のために。

「佳蓉は皇太后様にお会いしたことがあるの?」
「私も一度か二度、遠目にお姿を拝見しただけです。私が後宮に上がったのは代替わり後ですので」

 佳蓉は三度目の片付けを終え、(ほこり)一つ落ちてないことを確認する。それでもまだ不安が残るようで、四度目の片付けに入ろうとしたがそれを止めると、春麗は佳蓉を伴い槐殿の外に出た。

 日が暮れ始め、(とう)(ろう)に明かりが灯る。やがて足音が聞こえ宦官たちが輿を担ぎ現れた。春麗と佳蓉は叩(こうとう)し礼を取る。しばらくして、頭上から(りん)とした声が聞こえた。

「顔を上げよ」

 その声に春麗はおずおずと顔を上げる。そこには、まさに豪華絢爛といった襦裙を身に纏った女性の姿があった。皇太后ということは先帝の妃であったはずだが、その顔からは年齢を感じさせないどころか、義母である白露と比べても珠蘭の方が随分と若く思える。鋭い眼差しに真っ直ぐ見つめられると、同性だというのにその色気に心臓がうるさく鳴り響く。

 春麗が今着ている襦裙も、実家で着ていた時の襤褸と比べれば比べられないほど華やかではある。けれど、その春麗の襦裙と比べること自体が()()がましいほど珠蘭のそれは、華やかで(きら)びやかだった。暗がりでもわかる、金色の()(しゅう)は珠蘭の名のごとく蘭の花があしらわれていた。

「新しく後宮に妃が入ったと聞いてな。だが、待てど暮らせど挨拶にも来ない。仕方がないから(わらわ)から会いに参ったのじゃ」

 珠蘭の言葉に春麗は頭から血の気が引く思いだった。怒っているような口調ではなかったけれど、非礼を咎める言葉にもう一度今度は先程よりも深く叩頭した。

「あ、あのご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません」
「ん?」
「私、あの、楊春麗と申します。父は――」
「ああ、よい。それから先刻も申したが顔を上げよ」

 反射的に「ですが」と口走りそうになるが、皇太后である珠蘭の言葉を否定することなど春麗には許されるはずもなく。先程と同じように顔を上げると、珠蘭は切れ長の目を細め、真っ赤な紅を引いた口の端を歪めるように上げた。

「どうせ青藍がここにいるようにと命を出したのであろう。皇帝陛下には逆らえぬよなぁ」
「え、えっと」

 はい、と言ってしまえば青藍に対して非礼にならないだろうか。
かといって、同意しなければしないで珠蘭の言葉を否定したと思われても困る。

 結局、春麗は肯定することも否定することもなく(あい)(まい)に微笑むことしかできなかった。しかし珠蘭は気を悪くした様子もなく、後ろに控えていた皇太后付きの宦官を呼んだ。

「今日ここに来たのは、これを渡すためじゃ」
「これ、は……?」

 宦官が差し出したのは、金色の茶器だった。いわゆる煮茶器と呼ばれるもので、()()()(ばさみ)(ちゃ)(さじ)(はかり)の四つの茶器からなる。白露と花琳のために揃えられたものが屋敷にもあったが、こんなにも凝った作りではなく、もちろん金でできてもいなかった。

「このようなもの、私が頂くわけには……」
「いい、いい。一人このようなところに閉じ込められて退屈であろう。茶葉も用意してある。侍女にでも()れさせればいい」
「で、では是非今から――」
「無理をするでない」
「え?」

 珠蘭は優しく微笑む。その笑みに春麗は白露の姿を思い出した。花琳に微笑む、白露の姿を。春麗に対しては残酷なほど冷たかった白露だったが、実の娘である花琳のことは大切に可愛がっていた。その花琳に向ける笑顔と、珠蘭が春麗に向ける笑顔が何故か重なって見えた。

「妾がいてはゆっくり茶も飲めぬであろう。妾のことは気にしなくてもよい」

 宦官たちに茶器を槐殿の中へ運ぶように指示すると、珠蘭はやってきた時と同じように輿に乗り、槐殿を立ち去った。残された春麗は、珠蘭が乗った輿が見えなくなってもその場から動けずにいた。

「春麗様、そろそろお部屋に戻られてはいかがでしょう」

 佳蓉が声を掛けて来た時には、すでに茶器は槐殿へと運び込まれ、宦官たちも槐殿をあとにしていた。

「そう、ね」
「身体がお冷えになったでしょう。さっそく皇太后様から頂いた茶器でお茶をお淹れしましょうか?」

 佳蓉の提案に頷こうとして、春麗は思いとどまった。

「ううん、いつもの茶器で淹れてくれる?」
「お使いにならないのですか?」
「あれは私にはふさわしくないわ。それに綺麗すぎて使うのが勿体無い。できれば部屋に飾っておいてくれる?」
「承知致しました」

 佳蓉は金色の茶器を棚へと置くと、槐殿にやってきた時に用意されていた銀の茶器で茶を淹れ始めた。



 後宮での慣れない日々を送っていたある日、春麗はいつものように庭園に出て蝋梅を見上げていた。少し離れたところからの眺めも見事だけれど、実際に触れてみたい。そんな好奇心が春麗の心に生まれた。

 辺りを見回したが佳蓉以外には誰の姿もない。その佳蓉も、何かに気を取られ春麗から視線を外していた。

 一度だけ、一度だけでいいから。そんな想いが春麗を突き動かす。一歩、また一歩と踏み出すと、春麗は蝋梅にそっと手を伸ばした。

「あっ」

 目の前の蝋梅に気を取られていたからだろうか。足下への注意が疎かになっていたようで、気付くと春麗は体勢を崩していた。転ぶ、と思った時にはすでに遅く、春麗の身体はそのまま地面へと倒れ込んだ。

「春麗様!」

 真っ青になった佳蓉が慌てて駆けつけ春麗を起こす。大丈夫だと伝えようとした春麗の(てのひら)には血が(にじ)んでいた。

「お、お()()を……!」
「これくらい平気よ」
「そんなわけありません! 誰か! 誰か春麗様が!」

 佳蓉の声に慌てて人が集まる。その様子を春麗はどうすることもできず、ただ見ているしかなかった。

 春麗の怪我は掌を軽く()()いただけだったが、薬師や医者が集まり、薬を塗りそして包帯が大げさなほど巻かれた。

 こんなにしなくても、と思う春麗とは裏腹にそれらは行われていく。

「傷が治るまでは手を使うことはお控えください」
「わかりました」

 医者の言葉に春麗は素直に頷いた。不便はあるけれど仕方がない。何よりも自分の不注意で佳蓉が身体を震わせ、真っ青な顔をしていることのほうが春麗は気になっていた。

「佳蓉のせいじゃないのだから、そんな顔しないで」
「いえ、私のせいでございます。私がついていながら春麗様にお怪我を……っ」
「私が足下を見ていなかったのが悪いのだから、本当に気にしないで」

 まだ食い下がろうとする佳蓉に「この話はこれでおしまい」と話を終えた。そんな春麗の耳に、騒がしい声が外から聞こえてきた。

 佳蓉もその声に気付いたようで「少し様子を見て参ります」と部屋の外へと向かった。そして――。

「しゅ、春麗様!」
「佳蓉?」
「いっ今、槐殿の外に!」
「佳蓉、どうしたの? 落ち着いて」
「ですからっ!」

 佳蓉が言い終わらないうちに扉が再び開き、そして一人の男性が部屋に入ってきた。大きな音につられ春麗は真正面からその人を見てしまう。

 (おう)(ほう)を身に纏ったその人は黒い髪を背に垂らし、形のいい眉を歪めながら春麗を見下ろしていた。整った顔立ちの中でも一際目立つのは、()(すい)色の瞳だ。

 この人は、まさか。

 春麗の思考が追いつくよりも早く、誰かの叫ぶ声が聞こえた。

(しゅ)(じょう)!」

 その人の後ろから侍従だろうか、男性が慌てて追いかけてくる。主上、という言葉に春麗は慌てて佳蓉に(なら)い頭を下げ、右手で左の拳を包み拱手した。

「頭を上げよ」
「……はい」

 恐る恐る顔を上げると、青藍は春麗を真っ直ぐに見つめていた。なるべく姿を見ないように、失礼にならない程度に目を伏せる。

 突然どうしたというのだろうか。今の状況が理解できない春麗に青藍は口を開いた。

「怪我をしたと聞いたが」
「え、あ、その」
「大事はないのか」
「は、はい。その石に(つまず)いて……」
「石?」

 少し考え込んだあと、青藍はそばに控えていた男性に声を掛けた。

(こう)(ねん)
「はっ」

 名前を呼ばれただけで全てを理解したのか、浩然と呼ばれた侍従は部屋を出てどこかへと向かった。

「あの……」
「後宮の庭の石は全て片付けさせておく」
「え?」
「大事がないのであれば問題ない。では」

 そう言ったかと思うと、青藍は春麗の部屋を出て行った。残された春麗は佳蓉の方を向いた。佳蓉はそんな春麗に小さく微笑む。

「心配しておいでだったのだと思います」
「心配……? 陛下が、私を……?」

 今までお目通りもなく、後宮の奥深くに押し込んでいた春麗を青藍が心配する、なんていうことがあるのだろうかと春麗は疑問に思ったけれど、嬉しそうに笑う佳蓉に春麗はそういうことにしておいた。先程まで自分のせいで春麗が怪我をしたと真っ青になっていた佳蓉が、今は青藍が訪れたことで、こんなにも嬉しそうな顔をしているのだから。

「またいらしてくださるといいですね」
「そう、ね」

 佳蓉にはそう返事をしたけれど、こんなことはもうないだろうと春麗は感じていた。春麗を見下ろす青藍の目は冷たく、一切の興味も関心も感じられなかったから。

 今回の訪れもきっと気まぐれだろう。春麗はそう思っていた。

 しかし、その気まぐれが今後も続くことをこの時春麗はまだ知らなかった。



 その日を堺に、春麗が怪我をする度に青藍は槐殿を訪れるようになった。怪我だけでなく、(せき)をしただけで風邪を引いたのではと薬師を連れてくるほどだった。

「本当に(やまい)なのか」

 薬師が(せん)じた薬を()()で飲む春麗の(かたわ)ら、青藍は叩頭した医者に鋭い視線を向けていた。震え上がっている医者が気の毒で、思わず止めに入ろうとする春麗を佳蓉が首を振って止めた。

「本当でございます。風邪の引き始めかと思いますので、暖かくなされていらっしゃれば数日で治るかと」
「――では、ないのか」
「そのようなことは決して……!」

 はっきりとは聞き取れなかったが、青藍は一切信用していないどころか医者の返事を訝しむように眉をひそめた。

「万が一があればわかっているだろうな」と(おど)す姿に、春麗はそれまでちびちびと飲んでいた白湯を慌てて飲み干す。そもそも風邪など引いていないのだ。治る治らない以前の問題だ。

「もう、治りました、ので」

 聞こえるか聞こえないかぐらいのか細い声で春麗は言ったけれど、すぐそばにいた佳蓉にすら聞こえていないようで、無言のまま春麗の置いた茶碗を片付け始めた。春麗の声が誰にも届かないのはいつものことだ。春麗だってそれはわかっている。無視されることも気付かれないことにも慣れていた。

 だから、春麗の言葉の後に青藍が眉をひそめたことに、驚きを隠せなかった。まさか。いや、偶然に決まっている。誰も気付くわけが――。

「ふん、信用ならん。人間など皆同じだ。結局、お前も死ぬ」

 青藍が春麗を(いち)(べつ)し、吐き捨てるように言ったのを見て、春麗は思わず口を押さえた。それと同時に春麗には青藍の言葉が意外に思えた。冷たく攻撃的なようで、半面何かに(おび)えているようにも聞こえる。

 自信に満ちていて完璧に見える青藍が、何かに怯えるなんてことがあるはずがない。そう思いながらも、苛立ちを隠そうともしない青藍の姿に、春麗は思わず口を開いた。

「私は、死にません」

 青藍の言葉に反論するなどということが、妃嬪であろうとも決して許されないことぐらい春麗にもわかっている。それでも伝えることで少しでも青藍の心が楽になるのであれば伝えたかった。少なくとも今朝の時点で、春麗の額に死の文字は見えていないのだから。

 言い返した春麗に、青藍は不快感を示すように眉をひそめた。青藍だけではない。どうやら今度の声は後ろに控えていた浩然にも聞こえたようで、(けわ)しい表情を浮かべながら春麗を(にら)みつけている。命令があれば今すぐにでも手討ちにする、とその表情が語っていた。

 春麗は自分の分不相応な行動に冷や汗が止まらなかった。このまま殺されるのではないかと思うと、口の中が乾いてひりついた。死の文字は見えていなかったから、死ぬことはないだろう。だが、それが逆に怖かった。いっそ死ねれば恐怖も痛みも忘れられるけれど、死ねずに生かされているのであれば、その痛みに耐えなければならない。

 青藍が僅かに動いたのがわかり、春麗は肩を小さく震わせた。殴られる。そう覚悟して固く目を閉じるが、恐れていた衝撃はいつまで経っても襲ってこなかった。

 恐る恐る目を開けると、春麗を凝視する青藍の姿があった。目を合わせないように視線を()らしながらも、前髪の隙間から翡翠色の目を垣間見る。その目は、不思議なものを見るかのように春麗を見つめていたけれど、春麗が見ていることに気付くと青藍は目を逸らし「なら、いい」とだけ言い残して青藍は春麗の部屋を去った。

 翌日も、翌々日も青藍は春麗の部屋を訪れ、そして安否を確認する。()(さい)な怪我を大げさに治療させ、軽い風邪をまるで重病のように医者に()させた。

「どうしてこんなにもよくしてくださるのですか?」

 一度、あまりにも(たび)(たび)訪れる青藍に春麗がそう尋ねたことがある。しかし青藍はその問いに答えてはくれなかった。

 そのうち、一日に一度、青藍が春麗の様子を見るために部屋を訪れるのが日常となった。

「主上」
「どうした?」

 皇帝陛下、ではなく主上と呼ぶことに春麗が慣れた頃には、庭園に咲いていた蝋梅は散り、代わりに梅(ゆすらうめ)が見頃となっていた。

 ちなみに春麗の元を初めて青藍が訪れた翌日、言葉通り庭園にあった小石は全て撤去されていた。だからといって土が剥き出しなわけではなくきちんと整備されており、これを一晩で手がけたであろう()(かん)や女官に申し訳なく思った。

 そして今日、庭園の梅桃に手を伸ばそうとした春麗の手首に枝が当たり、薄らと切り傷ができてしまった。切り傷といってもよく見なければ傷があることすらわからないほどだ。にもかかわらず、青藍は本気で心配している。

 佳蓉が退室し、部屋には長椅子に隣り合って座る青藍と春麗、扉のそばで控える浩然の三人だけになった。青藍は治療の終わった春麗の手を、心配そうに見つめていた。

「主上は優しいお方ですね」
「……何を唐突に」
「私のような者をこのように心配してくださるのです。お優しい方です」
「……優しくなどはない」

 青藍は春麗から視線を逸らすと、(ほう)(たく)に置いてある佳蓉に淹れさせた茶碗を手に取った。それに口をつけようとしたものの、何かを考え込むかのような表情を浮かべ、そのまま方卓へと戻した。

「主上?」
「……俺を優しいなどと言う者はいない。お前も俺のことを知れば、そのようなことを言えなくなる」
「ええ、私は主上のことを何も存じ上げません」
「噂ぐらいは聞いたことがあろう」
「噂は、噂です」

 言い切る春麗へ物珍しそうな視線を青藍は向けた。いつもはどちらかというとおどおどしていて自分の意見をハッキリ言わない春麗が、こんなふうに言い切る姿を見たことがなかったからだろう。

 春麗は向けられた視線を、真っ直ぐ受け止めた。

「噂が全て真実だとは限りません」
「噂が出るには何か理由があるとは考えないのか」
「理由を知らない私にとっては目の前にあること以外、真実ではありません」
「では、お前の目に俺はどう映る」

 前髪で隠れる春麗の目を、真っ直ぐ()()くように見つめると青藍は言う。春麗は少し考え込むと、おずおずと口を開いた。

「私には心配性で優しくて、そして何かに怯えているように見えます」
「なっ」
「――よい」

 春麗の言葉を聞き、そばに控えていた浩然が立ち上がった。不敬であると思ったのであろうが、青藍はそれを制した。

「怯えている、か」

 青藍はそう呟くと声を上げて笑った。その様子に春麗をはじめ、周りの人間は驚きを隠せなかった。ひとしきり笑うと、青藍は先程置いた茶碗を手に取り、その中身を飲み干した。

「噂は全て本当だ」
「主上! それは……」
「浩然、黙れ」
「……はっ」

 何か言いたそうな浩然を再び黙らせると、青藍は春麗に顔を近づけた。まるでわざと怖がらせるかのように。

「母は俺が皇太子となる直前に死んだ。側近も、妃嬪たちも、そして皇帝だった父上も、だ。この後宮だけで何人死んだと思う? 両の手では足りぬほどだ。全て俺が死に()()られているせいだ。死の呪いが俺にはかけられている。それでもお前は俺のせいではないと言うのか?」
「ええ。その証拠に、私は死んではおりません」
「明日死ぬかもしれん。いや、今日このあとかもしれんぞ。俺がお前のそばにいる時間が長くなればきっとお前も」
「いえ、私は死にません」
「以前もそう言っていたな。お前は何故そう言い切れるのだ」

 あまりにもきっぱりと言い切る春麗に、青藍は眉をひそめた。

 春麗は一瞬の迷いのあと、前髪を上げた。そこにある金色の目に、息を呑む音が聞こえた。だがそれは青藍のものではく、後ろに控えていた浩然のものだった。

 青藍は眉一つ動かすことなく春麗の目を射るように見つめた後、興味深げに呟いた。

「ほう? お前は(あい)(おう)(こく)の血を引いているのか」
「……はい。母方の祖先が」
「そうか」
「主上は、この目が気味悪くはないのですか?」
「何故だ。異国の血が混じっているものなどどこにでもいよう。お前の場合、それが今は滅びた国であるというだけだ。それよりその目がどうしたというのだ。異国の血が混じっているから死なないとでも言いたいのか?」

 本当のことを話したとして、信じてもらえるのだろうか。そんな躊躇いを覚えたことに春麗は戸惑った。

 信じてもらいたいと、思っているのだろうか。目の前のこの人に。自分の言うことを。何故……? どうして、そのようなことを。春麗は自分の想いを不思議に思った。

 その疑問に答えが出るより早く、青藍はもう一度春麗の名を呼んだ。その声に、春麗は覚悟を決めた。

 信じてもらえようがもらえまいが、関係ない。本当のことを話すだけだ。そう思うのに……。どうしてだろう。目の前のこの人に信じて欲しい、そう思ってしまうのは。

 春麗は自分自身の手をぎゅっと握りしめ、口を開くと青藍にだけ聞こえるように声を潜めて言った。

「この目は……死を映します」
「死を?」
「はい。そのせいで、私は忌み嫌われてきました。呪われた目を持つ子だと。この目に映された人は……死ぬ、と」
「……だからここに送られたのか」

 春麗の言葉で、青藍は全てを悟ったようだった。

 青藍は後ろに控えていた浩然に視線を向ける。浩然はそれだけで命令を把握したのか、頭を下げると扉の向こうに姿を消した。

 春麗は後宮に送られることが決まった時から考えていたことがあった。もしかすると俊明は青藍を殺そうとしていたのではないか。考えたくはないけれど、俊明は春麗の目を、人を死に至らしめるものだと思っていた。ならばそれを利用しない手はないと、考えたのではないだろうか。

 その相手が、たとえ青藍であろうとも――。

 そしておそらく、青藍も同じことを考えたのだろう。俯く春麗に青藍は少し考え込むと、口を開いた。

「死を映すというのはどういうことだ」
「そのままの意味です。私の目にはその人の死が見えるのです。家の者は私の目に映ると死ぬと思っていたようですが、事実ではありません。ただ死ぬ者の顔にそれが浮かんで見えるだけなのです」

 見たくもないのに、ずっと人の死が見えてきた。他人の死と向き合いながら生きてきたと言っても過言ではない。そんなこと、これっぽっちも望んでいないというのに。

「では、この部屋に死にそうな者は」
「おりません。主上にもそして私自身にも死の文字は見えておりません。もちろん、佳蓉にも」
「そうか」
「ただ……」

 言うべきか、一瞬迷った。そんな春麗の迷いを読み取ったように青藍は人払いをする。部屋には春麗と青藍の二人だけが残った。

「この部屋にいない者に死の文字が見えたのか」
「……ええ」

 春麗は先程部屋を出て行った浩然のことを思い出していた。昨日まではなかった死の文字。それが青藍の命令を受けこの部屋を出ようとした瞬間、(とつ)(じょ)として浮かび上がった。まだ文字の色は薄かったけれど、あれは。

「毒死となるのだと、思います」
「呪いではなく、か?」
「呪いでしたらそう書かれているはずです。ですがあの方の顔には灰色の文字で『毒死』と書かれておりました。ですが呪殺とは書かれておりませんでしたので」
「事故もしくは何者かが毒を盛る、か」

 青藍は春麗の言葉に、形のいい眉をひそめると、眉間の(しわ)を指先で押さえた。

「そうか……。わかった。こちらで対処しよう」

 青藍の言葉に、春麗は思わず目を丸くした。

「……信じてくださるのですか?」
「何を、だ」
「この目に見えるもののことです」

 人の死を映すなど、荒唐無稽なことを言っている自覚はある。さらにその死の方法が浮かび上がって見えるなど、嘘をつくならもっとマシな嘘をつけと言われても不思議ではないが、青藍はすんなりと信じた上、対処をするとまで言ってくれた。一体どうして。

 春麗の疑問に、青藍はふっと微笑んだ。

「俺はこれでも人を見る目はあるつもりだ。お前は嘘をついているように見えない。それにもし、ついていたとしても」
「……いたと、しても?」
(だま)された俺が()(ほう)なだけだ。人が死なないのであればそれでいい」

 その言葉に春麗はもしかしてと思う。青藍が怯えているように見えたのは、自分のせいで人が死んだと、そう思っているからなのではないか。だから春麗に対してもちょっとした怪我や咳一つでも心配して駆けつけてくれていたのではないか、と。

 春麗が見た限りでは、青藍の周りに呪いで死にそうになっている人はいない。浩然に毒死との文字が浮かび上がってはいるが、少なくとも呪殺ではない。もしも呪いが本当にあるのだとしたら今一番可能性があるのは唯一、後宮で妃嬪として残っている春麗、そして春麗に仕える佳蓉だけだ。

「また来る」
「主上!」

 部屋を出ようとする青藍の背中に、春麗は声を掛けた。

「……なんだ」
「主上は呪われてなどいません」
「…………」
「その証拠に私は死にません。お約束致します」

 春麗の言葉に返事をすることなく、青藍は部屋をあとにした。

 青藍はきっと、とても優しい人なのだ。だからこそ、自分のせいで誰かが死ぬかもしれないということに心を痛めていたのかもしれない。自分のせいだと、自分自身を責めて、そして周りから人を遠ざけた。これ以上死者を出さないために。

「呪い……」

 春麗は一度だけ呪いで死んだ人間を見たことがある。あれはまだ母である鈴玉が生きていた頃だ。呪殺と顔に書かれたその人は屋敷に出入りする呪術師だった。そのような文字を見たことがなかった春麗は、何が起きるのか怖くて仕方がなかった。数日ののち、呪術師が呪いを受けて死んだと聞いた時は、あれはそういうことなのかとわかり、臥牀の中で泣いたことを今でも覚えている。

 しかし少なくとも浩然は呪殺ではない。青藍の手はずが上手くいき、浩然の命が助かれば青藍の自分を責める気持ちも少しは(やわ)らぐかもしれない。

 死なないで欲しい、青藍のために。

 死にそうになっている浩然のためではなく、青藍のために祈るのかと自分でも呆れてしまう。
それでも春麗は願わずにはいられなかった。心優しき青藍が、これ以上胸を痛めることがないように。

 それから数日は特に変わりのない日々を過ごした。なんだかんだ理由をつけて青藍は春麗のことを気にかけてくれた。そして五日が経った頃、険しい顔をした青藍が部屋を訪れた。その後ろに浩然の姿はない。まさか。

「浩然に毒が盛られた」
「なっ……。そ、それで浩然様は……!」
「今は休ませている。発見が早かったため命に別状はないそうだ。お前のおかげだな」
「私の……ですか?」
「そうだ。お前のその目のおかげで浩然は助かった。礼を言うぞ」
「い、いえ。ですが助かったのであればよかったです」

 春麗は(あん)()の息を漏らした。浩然が助かってよかった。そして、この呪われた目が人の死を予言するだけではなく、助けることもできるのだと言う青藍の言葉に戸惑う。

『お前のせいで』と言われたことは(いく)()となくあったが『お前のおかげで』と言われたのは、春麗にとって生まれて初めてのことだった。

「春麗」
「は、はい」

 青藍は春麗の名を呼びその目を真っ直ぐに見つめる。そして頬にそっと手を伸ばしてきたが、その手が頬に触れることはなく、何かを恐れるように手を下ろした。

「今もお前には死の文字は見えてはいないか」
「はい。主上に死の文字は見えておりません」

 春麗の言葉に青藍は眉をひそめ、そして首を振った。

「俺ではない」
「え?」
「お前自身に死の文字は見えていないかと聞いているのだ」
「え、あ、はい。私にも見えてはおりませんが」

 質問の意図がわからず、春麗は首を傾げた。青藍は春麗の言葉に息を吐くと、躊躇いがちに口を開いた。

「……では、触れてもよいか」
「え? え、ええ?」

 戸惑いながらも頷く春麗の手に、青藍は自分の掌を重ねた。まるで春の日だまりのような温かい掌。そのぬくもりは掌を通じて春麗の心をも温めてくれるかのようだった。

「……温かいな」
「そうで、しょうか」
「ああ。……それに、小さな手だ」

 春麗は自分のひび割れ、あかぎれで荒れた手を思い出し、慌てて引っ込めようとしたが、しっかりと青藍の手で握りしめられ、春麗は逃げられなかった。

 それどころか青藍は逃がすまいと指先を春麗の指へと絡める。

「しゅ、主上」
「なんだ」
「い、いえ。その……」

 真っ直ぐに春麗を見つめるその視線から逃げることはできず、それでも何か言わなくてはと必死に考えたが、心臓の音がうるさくて頭の中がまとまらない。指先から伝わる熱は春麗の手をどんどん温めていく。これは春麗の熱なのかそれとも――。

「主上の手も、その、温かい、です……」
「……そうか」
「はい」

 一瞬、面食らったような表情を青藍は浮かべ、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ。その笑みに春麗は目を奪われる。

 掌から伝わってくるぬくもりは温かくて心地いい。それは春麗にとって物心ついて初めて触れる人のぬくもりだった。そしてまた、青藍にとっても――。