慣れない環境に身を置くと、ふとしたときにポカをするらしい。
 俺の場合は、報告漏れだった。

「なんで昨日の夜、制服のポケットを確認してなかったんだ……!」

 胸ポケットに入れていたローズィアンのリボンが消えていることに気がついたのはつい先ほど。朝起きてすぐのことだ。
 従者になってから移った別邸にある使用人用の部屋を隅から隅まで探しても、リボンは見つからなかった。

 部屋にないと分かると、すぐにクリアの元へ向かう。
 クリアは朝早くからクリスティーナお嬢様が使われる応接間の清掃をしており、俺は事情を説明した。

「どこで落としたのか、心当たりはあるか?」
「確証はないけど、草むしりのときか、ランドゥン様と猫を助けたときか……あとは絡まれたときかもしれない」

 屈んだり、姿勢を低くしたり、派手な動きをしたのはその辺だろう。

「……そうか」

 クリアは難しそうに考え込んでいたが、次の瞬間にはてきぱきと指示を出し始めた。

「クリスティーナお嬢様がご起床されるまで時間はある。昨日歩いた範囲を探してこい。それでも見つからなかったら戻って来るんだ」
「わかった。あれ、クリアはどこに行くんだ?」

 掃除の手を止めたクリアは、同じように応接室を出ようとしている。

「……念のためバートル様に報告する。そんな面倒なことになる可能性は低いだろうが、もしものためだ」
「面倒なこと……?」
「いいから。お前は早くリボンを探せ!」
「ハイ!」

 じろりと睨まれながら、俺は急いで外に出た。
 元は落ちていたものだが、それを拾ってまた落とすというのはかなり問題がある。

 ……しかもローズィアンの私物を、だ。


 ***


 使用人宿舎の裏手と、ランドゥン様に連れていかれた森の近くの木を順番に見ていくが、それらしい物を見つけることはできなかった。
 もう風に飛ばされてしまったのかもしれない。
 そうなってしまっては、さすがに見つけようがなかった。

「あとは、ここをまっすぐ歩いて、本邸に……」

 目をじっと凝らして地面を確認する。
 
「――おい、盗っ人」
「ん?」

 前方から声が聞こえて顔をあげると、そこにはエドリックが立っていた。
 その背後には、同じく昨日ぶりの従僕たちの姿がある。

「いま、なんと?」
「盗っ人って言ったんだよ」

 俺を見据えるエドリックの瞳には軽蔑が滲んでいる。そして、従僕たちは絶妙に腹が立つにやけ面を浮かべていた。

「あの、どうして俺……おほんっ、私が盗っ人と呼ばれているんですか?」
「白々しい。おまえがさっきから探してるのは、コレのくせに」

 そう言ったエドリックの手には、昨日拾ったローズィアンのリボンが握られていた。

「どうしてそれを」
「何言ってるんだよ。それは昨日、おまえの服の中から出てきたものじゃないか。まあ、落としたことにも気づかないでさっさと逃げていったけどな!」
「そのリボン、ローズィアンお嬢様が付けているリボンだろ。一体どうやって盗んだんだよ」
「ほんと、油断も隙もないよな」
「敷地内の散策とか言って、本当は盗みに入ってたんだろ! バートル様に許可をいただいていたくせに、それを利用するなんて!」

 エドリックの後ろから、従僕たちが吠えるように付け足した。
 昨日……ああ、やっぱり絡まれたときにポケットから出てしまっていたのか。
 よろけて地面に手をついていたからな。
 もし従僕たちが見ていたのなら、状況を踏まえてその時が一番当てはまるだろう。

 まさか草むしりを投げ出した報復に、エドリックにリボンを渡して吹き込んだのか?
 
「……まさか、初日で盗みを働くなんてなぁ。だから奴隷に成り下がったやつはイケすかないんだよ」
「それは誤解です。元々は花園に落ちていたものを拾ったんです。それを落として――」
「は! んな言い訳が通じるかよ!」

 耳が痛くなる声量と、気性まで荒らげてエドリックは横槍を入れてくる。
 俺の話をまともに聞く気なんてないように感じた。

「だいたいオレはなぁ……奴隷ってやつが、大っ嫌いなんだ。元とかそんなの関係あるか。奴隷の烙印を押されてる時点で、気に食わねぇんだ」
「……!」
「最初っからそうだ。奴隷だったやつがエムロイディーテ侯爵家の使用人になるって聞いたときから、許せなかったんだよ!」

 一歩前に出たエドリックは、胸ぐらを強引に掴んだ。
 俺より少しだけ背が高いぐらいのエドリックだが、力の差は歴然で。為す術もなく体を引っ張られてしまった。

「ちょ、なにするんだよっ」
「本当に、頭がイカれてるだろ。あのお嬢様(呪いの子)は」
「……あ?」

 その言葉に、周辺の温度が一気に下がったような感覚に陥った。

「気味が悪い。別邸に追いやられて、好き勝手に金を使いまくって……それで、その金で今度はこんな奴隷だったやつを敷地内に入れる? 頭がイカれてるとしか思えない!」

 もう、エドリックは笑っていない。
 成り行きを面白がりながら見ている従僕たちとは違い、本気でそう思って言っているのだ。
 悪ふざけじゃない。嘘偽りなく心の底からの言葉を述べている。
 彼は彼なりに、思うところがあって発言しているというのは、何となく理解ができた。

 ……それでも、それでもさぁ。
 
「一体何の意味があるんだ。実の父親に避けられて、屋敷の使用人たちから避けられて、しかも贅沢な食事ばっかり摂っているから、みっともなく肥え太って。よくあんなお嬢様に仕えようと思ったなぁ。ああ、おまえは奴隷だったから、買われたのか。そりゃあ、主人なんて選べるわけないだろうな――」

 それ以上のことは、言わないでくれないかな。
 あの子のことを、クリスティーナお嬢様のことを、そんなふうに言うな。
 俺はお嬢様のことをすべて知ったわけでも、理解しているわけでもない。
 だけど、俺よりもお嬢様を知らないエドリック(お前)に、なんでそこまで言われなければいけないんだ。

 ……どんなに腹立たしくても、顔面に拳を振るいたくなっても、手を出すな。
 そうクリアに言われていたことを意識したわけではない。

「……」

 ぐらりと、頭が後ろにゆっくりと傾く。
 そうしたほうが、速さが加わってより衝撃が強くなると思ったから。
 
「フンッ!」

 ただ、気がついたら動いていたのだ。
 考えることをそこで止めて、エドリックの声を封じようと、言葉を途切れさせようと、そうして前に出ていたのが――頭だった。

「がっ……!?」

 俺の頭はエドリックの(ひたい)めがけて思い切り突っ込んだ。

 ゴンッ……と、思わず耳を塞ぎたくなる鈍い音が耳もとに届き、同時にうめき声が周囲にこだまする。

「さっきからごちゃごちゃごちゃごちゃと……いい加減うるっせーよ!!」

 尻もちをついたエドリックに向かって俺は乱暴に言葉を吐き捨てた。
 完全に口調が素になっているのもお構い無しに……というよりは、忘れている。

 ――絶対に問題を起こすな。たとえあの腹立たしい顔に拳を振るいたくなってもな。

 手は一切出していない。
 ただ、頭が激しく主張をしただけである。