部屋に入って来たクリアがクリスティーナお嬢様の指の手当てをしている間、俺は床に座らされていた。

「おい」

 足が痺れ始めたころ、クリアはじろりとこちらに視線を寄越す。

「はい……」
「背中を見せてみろ。お前の背中からも血の匂いがする」
「血? ああ、契約印の……」

 たしかに契約破棄の際もじりじりと焼かれる痛みはあったが、よく血の匂いを嗅ぎ分けられたな。

 扉を半壊させて部屋に入って来たときは怒っているように見えたけど、クリスティーナお嬢様の弁解もあって今は多少落ち着いたようだ。

 元々クリアは、部屋の扉のすぐ前で待機していたらしい。
 お嬢様が俺と一対一で話したかったとのことで、渋々蚊帳の外にいたわけだけど。
 中から鏡が割れる音やお嬢様の荒立てた声が聞こえ本人は気が気じゃなく、初めに決めていた十分が経ったと同時に部屋に入って来たのだ。

「いててて」
「我慢しろ」

 容赦なくベロンと服を捲られ、クリアに背中の手当をされる。
 位置的に椅子に座っていたクリスティーナお嬢様からも見えるようで、小さな吐息が聞こえた。

「元々あった奴隷印と……わたくしの契約印の痕がくっきり残ってしまっているわ」
「……そのようですね」

 ふーん、そうなんだ。
 奴隷の焼印は消えないだろうが、魔力によって印された契約印も痕が残るものなのか。

「これでは……背中を見られたら誰にだってあなたが奴隷であったと知られてしまうわ……」

 お嬢様の憂いだ声がやけに耳に響く。
 申し訳なさそうな言葉とは裏腹に、俺の内心は穏やかなものだった。

 奴隷は、社会的地位を剥奪されたモノ。
 普通奴隷、犯罪奴隷、性奴隷と括りは様々だが、結局のところ一般的には『奴隷』であることには変わりない。
 そんなモノを批判的な目で見る人々は大勢いるし、奴隷だったというだけで生きにくい扱いを受けるのもざらであった。
 そして主従契約の印も同様な目を向けられることが多い。

 お嬢様はそのことを気にしているようだが、奴隷印はどうしたって残っていたものだし、そこに契約印が足されたとしてもさほど変わらないような。
 奴隷印も年月を経て薄くなったとしても、そう簡単に消えはしない。

「気にしないでください。むしろお嬢様の契約印が体に残っているなんて、なかなか乙じゃないですか?」
「……」
「あいたっ!」

 フォローのつもりで言ったのに、後ろからクリアに無言で頭をど突かれた。

「不謹慎だ」

 後ろを振り向くと恨めしそうな瞳とかち合う。
 ……だんだん分かってきたぞ、クリアのこと。

 まあ、たしかに……世間的には不謹慎というか、あまりよろしくない痕には変わりないので素直に謝った。

「……痕はあるけれど、ちゃんと契約は切れているのね」

 ひんやりとした小さな手のひらが、俺の背中に優しく触れた。
 クリスティーナお嬢様は食い入るように背中の印を見ている。

「それなのに、わたくしを前にしても平気でいられるなんて。なぜなの……?」
「……」

 その言葉にクリアもこちらを見た。
クリスティーナお嬢様がどんな目を向けられているのか、一番彼女のそばにいるクリアなら当然分かっているのだろう。

 クリスティーナお嬢様とクリアの両方から「なぜ?」という顔をされるが、実のところ俺も知らない。
 血を飲み契約破棄をしたのだって、その場の勢いがあったといっても過言ではなく。俺にもどうなるかは分からなかったのだ。

 ただ、クリスティーナお嬢様が言っていたような感覚は何も起こっていない。
 
「まあまあ、そう疑心暗鬼にならないで。この子を従者として置いてもいいんじゃないかな」

 ふと、部屋にシャルの声が響いた。
 けれど声の主であるシャルの姿はどこにもいない。

「ここ、ここだよー」
「ここってどこ……うわっ!」

 頭上から楽しげな声がして、もしやと顔をあげる。
 するとそこには、空中でぷかぷかと浮かぶシャルの姿があった。

「くふふふ、びっくりした?」
「な、え……どうやって……」
「いいねーその反応。クリアもクリスティーナも今じゃすっかり慣れて驚いてくれないし。新鮮だよーニア」

 いや、笑うだけで答えは言ってくれないんかい。

「シャル……話の途中に割り込むな」
「ごめんごめん。けれど、このままじゃあ埒が明かないと思ったからさ」

 その辺をふわふわと浮いていたシャルは、クリアを諌めつつ片足をトンッと床につけ着地した。

「ぼくは賛成だな。ニアをクリスティーナの従者として迎えること」

 手を後ろに組みながら、シャルはそう告げる。

「シャル……けれど……」

 クリスティーナお嬢様は困ったような顔を浮かべた。
 そんなお嬢様の様子をちらりと確認したシャルは、にっこりと温かな笑みを彼女に向ける。

「あのね、クリスティーナ。ぼくもクリアも、もちろんきみの意思を尊重するよ。だけどクリスティーナがニアに向けた言葉は、本当にクリスティーナの本心だった?」
「わたくしの、本心……?」
「本当に、ニアにここを出て行って欲しい? ニアはきみのそばにいることを望んでいて、そのことについてクリスティーナはどう思った?」
「……」
 
 瞳を大きく広げたまま、クリスティーナお嬢様は硬直してしまった。
 そんなことを言われるとは思っていなかったのか、お嬢様は動揺しているように見える。

「わたくしは……」
「たしかに呆れるくらい超しつこかったし、必死すぎて置いてけぼりになったかもしれないけど、ニアの言葉を聞いてクリスティーナはどう感じたの?」

 色々と言われているが、ここは口を挟む時ではない。
 隣にいるクリアもそれがわかっているのか、唇を固く結んでいる。

「……わたくし……うれしかった」

 顔をうつむかせたお嬢様から、たしかに聞こえたのはその言葉だった。
 一度声に出すと、それは堰を切ったように溢れてくる。

「短い間だったけれど、一緒にいられてとても楽しかったの。クリアがいて、シャルがいて、そして……そこにニアがいることが、楽しかった」

 恐る恐る言っているようなお嬢様の声音。自分の気持ちを言葉にすることに、これほど不慣れな人だったのかと改めて驚かされる。

「わたくしなんかのそばに、居たいといってくれて……本当はとっても嬉しかったの」
「うんうん、そうなんだ。じゃあクリスティーナが今考えていることを、ニアに伝えてみよう」

 そう言ってシャルは後ろに下がる。
 代わりにシャルに肩を軽く叩かれながら、俺がクリスティーナお嬢様の前に立った。

「あの、わたくし……わたくしは……」

 焦った様子であたふたするお嬢様の目つきが、だんだんと覚悟を決めたように変わっていく。
 俺はお嬢様が言葉を発するまで、静かに待った。

「……あのね」
「はい」
「さっき……酷いことを言って、ごめんなさい。いらないなんて思ってないの、安い買い物とも思ってなかったの。本当は全部、あなたがここを離れたいと思う口実を作りたかっただけ」

 モジモジと自分の両手をすり合わせながら、お嬢様はゆっくりとした口調で言う。

「……ニア」
「はい、お嬢様」

 ようやくお嬢様に名前を呼ばれ、俺は即座に返事をした。
 するとお嬢様の瞳がきらきらと輝いたように動きを見せる。

「あの、あのね……今さらって思うかもしれないけれど、その」
「……」
「ニア……やっぱりわたくしの、従者になってくれる?」

 そんなのはもう決まっている。そもそも俺は初めからそのつもりだった。
 けれどお嬢様は敢えて俺にそう尋ねたのだ。だから俺も、もう一度この言葉を送った。


「――はい、クリスティーナお嬢様。俺をお嬢様の従者にしてください」

 嬉しさのあまり調子づいた俺は、お嬢様の前に膝まづき、深く頭を下げたのだった。


 ***


 ということで、ようやく俺は正式なお嬢様の従者になった。
 お嬢様の未来に起こるかもしれない闇堕ちを回避する。
 それをしかと胸に秘めて、誠心誠意クリスティーナお嬢様に仕えよう。

 ただ、先輩従者のクリアには未だ警戒されている。

「……クリスティーナお嬢様の決定には従う。だが、私は決してお前を信用したわけではない。それだけは胸に留めておけ」

 はっきりとそう言われ、むしろ清々しく思った。
 だが、その言い分もよく分かる。

 クリア目線での俺は、尋常ではないくらいクリスティーナお嬢様に執着し、従者の座を勝ち取った輩という位置にいるのだ。
 奴隷だった自分を救ってくれた恩があるからと理由を突き通すことはできるだろうが、その必死さを逆にクリアには怪しまれている。

 どうすればいいのだろう。お嬢様が闇堕ちするかもしれないということをクリアに伝えていいものか。
 それも選択肢には入っているが、まず先に『闇の精霊』についての情報を集めてからだ。

 まだまだ手探り状態であることには変わらない。
 
 けれど俺が従者になることで、クリスティーナお嬢様の未来を救えるかもしれない。
 そんな淡い希望に似た想いを、この時の俺は抱いていた。





 小説『マジカル・ハーツ』に関して――ある重大な記憶が欠落していることに、気がつかないまま。