苦しい、痛い、空腹で今にも死んでしまいそうだ。

 食べ物とは言い難いものを口に無理やり流し込まれたのは、七日ほど前だったか。生きるか死ぬか、際どいところで今も意識を保っていた。

 もう、殺して欲しい。何度そう願ったかわからない。

 産まれ育った家が没落後、引き取ってくれた義父母は、早々に借金のカタとして自分を奴隷市場に売り払った。
 自分が何の役にも立たない落ちこぼれだったからだ。まがいなりにも貴族の血が流れる身であるのに、使えるはずの魔法が使えない。
 そのうえ体力の消耗は激しく、下働きすらまともに出来ない。だから自分はこうして奴隷になったのだ。

 干からびた布を体に巻き付け、鎖で繋がれた首輪を嵌め、惨めに膝をついて道行く人に品定めされる。異臭を放つ奴隷の自分に近寄るものなどいない。まさに養豚場の豚の気分だ。
 いいや、豚ですらもう少し待遇がいいだろう。人であっても人権を持たない、家畜以下の存在である奴隷を同情の目で見ている者などこの場にはいない。

 ──ああ、死にたい。
 自分には何も無い。
 ならば一思いに、誰か殺してはくれないだろうか。

 ぐらりと体が前に倒れる。
 力が抜けて動けない俺の背中を、奴隷商人は鞭で何度も叩いた。
 早く体を起こさなければ……起こさなければ? もしかして、ぽっくり逝けたりするかもしれない。

「この子、おいくら?」

 そんなことを考えていれば、ふと鈴の音のような声が聞こえた。そして自分の目を疑う。

 なぜか俺の前に、顔を隠した少女が立っていた。

「……」

 こちらを見下ろす頭巾の奥の顔。ぼんやりとだけど確認できる。

 ぷっくりと膨らんだ頬が、口を開くと上下に分かりやすくたゆんと動く。
 食べ物に困っていないんだろう。空腹ゆえかそう感想を抱かせる容姿の少女だった。

 頭巾からこぼれた髪が波打っている。
 紫と黒を混ぜたような色をしており、つぶらな瞳も同様の色彩に染まっていた。

「ハハ……お嬢ちゃん。ここは君みたいなお子様が来ていい場所じゃねぇんだぞ」

 奴隷商人が苦笑いを浮かべ、少女を追っ払おうとしている。商売の邪魔になるからとっとと消えて欲しいのだろう。年齢からして明らかに奴隷市に相応しくない子どもだから。
 しかし奴隷商人が強く邪険にできないのは、少女の身なりにあるのかもしれない。
 隠した黒色のローブの下から丸見えになっている、豪奢な織りをしたドレスの裾。明らかに平民ではない、身分不詳の少女に奴隷商人は下手に出れないでいる。

「聞こえなかった? この人、わたくしが買いたいと言っているの」

 抑揚のない声があたりに響き渡る。
 何事かと周囲の人間の注目も集め始め、混濁の波が広がっていった。

「……これで足りる?」

 少女は後ろに視線を向け、誰かから袋を受け取った。
 ぎっちりと詰め込まれた袋の開け口からは、金の硬貨が見え隠れしている。
 奴隷商人は目の色を変え、わかりやすく少女にゴマすりを始めた。

「もしかして、お父さんが近くにいるのかな? なんなら呼んできたほうが――」
「それはあなたに関係のあること? ずいぶんとお粗末な仕事ぶりなのね」

 奴隷商人に臆する様子もなく、少女はにっこりと唇を笑わせる。
 その態度に恐れをなしたのか、奴隷商人は素早く主従契約の準備に移った。

 主従契約は、主となる者が従となる者の体のどこかに、魔力が練り込まれた印を付けることで完成する儀式である。

「……っ、あ」

 本当にこの少女が俺の主人となるのだろうか。
 子どもにと飼い犬を購入する感覚で貴族の人間が奴隷市場に訪れることはよくある話だが、子ども本人が足を赴くなんて見たことがなかった。

「我は汝の主、汝は我の従。ここに契約の印を刻む(与える)。汝の名は――ニア」
「おい、早く口を開けろ!」

 奴隷商人に頭部を強く鷲掴まれ、上を向かされた。少女の人差し指から流れる血の一滴が、ゆっくり滴り落ちて舌に流れた。
 鉄の味と、体内が熱く沸騰していくような感覚に目眩がする。

「う、っ、あ、ああ……!」

 例えようのない痛みが肌にまとわりつく。
 主人となる者の魔力と血で作られた印が、背中に表れるのを感じた。
 契約破棄の瞬間まで、その契約印は体に深く刻まれるのだ。

「……っ」

 うずくまった体勢のまま、ザラザラとした髪の隙間から少女の顔を窺うと、とても辛そうな顔で俺を見ていた。
 こんなに苦しむなんて知らなかった。わかりやすく顔に書いてある。

「ぐぅ、い、たっ……」

 なんなんだ、これは。
 何度か契約を目の前で見たことがあったが、誰もこんな苦しみ方をしていなかった。
 自分もほかの奴隷同様に痛みの耐性はそれなりにあるはずだった。
 それなのに、頭が焼かれたように熱く、心の臓は鷲掴みされているのではないかと思うくらい息ができない。
 
 そして、なにかが体中を流れていくおかしな違和感が、頭のてっぺんから足の爪先までを駆け巡った。

「――あああっ、あ!」
「な、なんだお前……大袈裟に叫ぶなこの野郎!」
「やめて!」

 奴隷商人が俺の背中を鞭で叩こうとする。
 それを少女が自分の体を盾にして庇っていた。

 ……あれ? よく見てみるとこの女の子、どこかで見たことがある気がする。

「もうこの子はわたくしが引き取ったの! 乱暴な真似は許さないわ! ……クリア、お願い」
「はい、お嬢様」

 痛みに苦しむ俺を、誰かがそっと抱き上げた。
 ぼやりと霞む視界の先で、白銀色の髪の少年がこちらを覗いている。
 少年は終始無表情で、まるで温度のない人形のように美しい顔立ちをしていた。

「ニア、大丈夫。今からわたくしのお家に戻るだけよ」

 少女は俺の干からびた手のひらをきゅっと両手で握りしめた。こんなに薄汚れた体の俺を嫌な顔せず、普通に触れてくるなんて。
 いつ水浴びしたかなんて忘れたし、今の俺は相当汚いだろうに。

「ん、ぐっ……つっ」

 少女の顔を見ていれば、頭の中を鈍器で殴られたような強い衝撃が広がった。

「参りましょう――クリスティーナお嬢様」

 クリアと呼ばれていた少年が、少女をそう呼んだ。

 鮮やかな紫と黒が混じった瞳。そして同色に染まる艶のあるウェーブの髪。
 綺麗だと思った。
 けれど彼女に対して『その色』を綺麗だというのは、侮辱になってしまうのかもしれない。

 ああ、ようやく思い出した。
 俺は、この女の子を知っている。

 この子はある小説の中で――闇堕ちしてしまったお嬢様だ。