あのころの私たちは、未熟で、素直で、可愛らしいところがあった。

 今では、本音を話す機会も少ない。だから、昨日みたいなことが起きるのだろう。

 思い返しただけでも腹が立つ。

 一言あれば、こんなに気にすることもなかったはずだ。

 そう思うと、真宙に直接文句を言いたくなった。まだ朝が早いから、出かけていることはないだろう。

 真宙が家に帰っていればの話だが。

 真宙の家の合鍵を手に、自分の部屋を出る。

 隣の部屋に行くと、鍵を開けた。

 玄関には、真宙がいつも履いている靴が揃えられている。

 よかった。帰っている。

 片手で数える程度しか来ていない部屋に、足を踏み入れる。

 昨日遅く帰ってきたのか知らないが、真宙はまだ眠っていた。

 真宙が起きるのを待っていられなくて、私は真宙を揺すって起こす。

 真宙は目を擦ると、私を見つけた。

「早紀ちゃん……? なに、してるの……」

 私がいることに驚いているらしい。

 まあ無理ないだろうが。

「真宙に言いたいことがあって」

 真宙は体を起こすと、小さく欠伸をする。ベッドを降り、カーテンを開けた。

 寝ぼけているのか。私の話を聞いていない。

「……僕も、早紀ちゃんに言っておきたいことがあるんだ。ちょっと顔を洗ってくるから、適当に座って待ってて」

 真宙はキッチンに行った。

 私が悪いことをしたわけではないのに、怒られているような気がした。真宙の姿が見えなくなったことで、一気に体が軽くなったようだ。

 戻ってきた真宙は、両手にお茶を注いだコップを持っている。

「ごめん、おまたせ」

 それをローテーブルに置くと、腰を下ろした。

「それで、話って?」

 いつもの柔らかい笑顔や声ではない。

 なぜ真宙のほうが不機嫌なのだろう。腹が立っているのは、私だ。

「昨日のこと。遊びに行きたいなら、そう言ってくれればよかったのに。わざわざ隠れるようなこと、しなくても」

 真宙は文句を言う私に対して、鼻で笑った。

「ねえ、早紀ちゃん。それは……どの立場で言ってるの?」

 どの立場と言われると難しいが、私たちの関係には名前がある。

「もちろん、彼女だけど」
「……彼女ね」

 間違っていないはずなのに、正しい答えを言った気がしない。

「……僕たち、少し距離を置こう」

 真宙がなにを言っているのか、わからなかった。

「それって、別れるってこと?」

 つい、口調が厳しくなる。

「そうじゃなくて……」

 真宙ははっきりと言わない。その態度に、余計に苛立つ。

「なんでそんなことを言うの? 私のことが嫌いになったなら、そう言えばいいでしょ」

 真宙の言葉を受け入れないということは、私は別れたくないのだろう。

 責めるような言い方をしたからか、真宙は顔を上げない。

「……嫌いになったわけじゃない。怖くなったんだ」

 真宙の表情が見えないが、私を怖いと言っているのは、本気だろう。

 なにがどうなれば私を怖がるのか。考えてみるが、答えが見つからない。

「確かに僕たちは恋人同士だ。でも、やっていることは僕が早紀ちゃんの家に行って、ご飯を作っているだけ。それだけなんだ」

 私たちなりの交際の仕方があると思って、そのことに疑問を抱いたことはなかった。

 だけど、真宙はそれが気に入らなかったのか。

「……嫌なら、やらなきゃよかったでしょ。私、頼んでない」

 真宙は顔を上げる。今にも泣きそうだ。

「うん、その通りだよ。頑張る早紀ちゃんを支えたくて、僕が勝手にやっていたことだ。だから、それは別にいいんだ」
「じゃあ、なにが気に入らないの」

 真宙の話し方に、苛立ちを隠せなくなった。

 真宙は私から視線を逸らす。

「僕も、役目が終わったら……いらなくなったら、壊れた腕時計みたいに捨てられるのかなって思ったら、怖くなったんだ」

 私は、腕時計が壊れた日の夜のことを思い出した。

 あの日、真宙は用事を思い出したからと、夕飯前に帰った。私が腕時計を修理せずに買い直すと言っただけで、そんなことを思っていたのか。

 そんなつもりはなかったのに。

「……わかった。真宙の言う通り、距離を置けばいいのね」

 私は出されたお茶に手をつけず、立ち上がる。そして一度も振り返らずに、真宙の部屋を出た。

 自分の部屋に戻っても、苛立ちが収まらない。

 思ったことがあったら、すぐ言えばよかったのに。今さら遠慮し合う関係でもないのに。

 というか、そんな小さなことを気にするような奴だとは思わなかった。

 一つのことに怒り出すと、今まで気にならなかったことが気になってくる。

 いちいち甘えてくるところとか。空気を読まずに笑っているところとか。

 真宙の長所であるものが、急に短所になる。

「あー、もう!」

 一人の部屋で、無意味に叫ぶ。

 そんなことをしたところで、なにかが変わるわけではない。

 でも、少しでも気持ちをリセットさせたくて、深呼吸をする。

 これで真宙のことを考えるのはやめる。

「……大学行こう」

 用意していた鞄を手に、家を出た。

 大学に着くと、私はなにかに取り憑かれたように手を動かした。

「うわ、朝から勉強してる」

 結芽は講義が始まる三分前に来た。

 嫌そうな顔をする。

「……別に悪いことはしてない」

 真宙への苛立ちを引きずっていたらしい。私の声は冷たかった。

 結芽は目を丸める。

「どうした。今日は不機嫌?」
「……ごめん、ただの八つ当たり」
「この授業が終わったら、私が話を聞いてあげよう」

 なぜ上から目線なのか。そう言いたかったが、講義が始まる時間になった。

 私は文句を飲み込んで、教授の話に集中した。その間は、余計なことは考えずに済んだ。

 講義が終わると、いつもは自習をする。でも、今日は結芽に引っ張られて学生の休憩スペースに連れてこられた。

「さてと。話してみな?」

 嫌だ、と言ってもよかった。わざわざ結芽に話すようなことではない。

 そう思っていたはずなのに、誰かに話すことで楽になれたりしないだろうかという考えが頭に過り、私は真宙とのことを話した。

 高校卒業から約一年半付き合っていること。

 隣の部屋に住んで、半同棲のようなことをしていること。

 ずっと、真宙に夕飯を作ってもらっていたこと。

 そして、真宙と喧嘩をしてしまったこと。

 全てを聞いた結芽は、呆れた表情を見せた。

「早紀が悪い」
「……どうして?」

 私は悪いことなんてしていない。そう言われるのは、納得がいかない。

「恋人なのに家政夫みたいなことしかしてないってなると、不安になるって。デートとかしてないの?」
「……勉強で忙しくて、そんな余裕なかった」

 結芽はため息をつく。

「早紀の彼氏君も同じ大学生だよね? 忙しいのは一緒じゃない?」

 そう言われてしまうと、返す言葉がない。

「早く彼氏君に謝りなよ? 多分、早紀は彼氏君がいないと生きていけないだろうから」
「大袈裟じゃない?」

 一人で生きようと思えば、それくらいできるはずだ。

「自分でご飯が作れない人がなにを言ってるのかな?」

 結芽の目は笑っていない。私は言葉に詰まる。

 そう言えば、いつの間にか真宙が私の部屋にいることを当たり前だと感じていた。

 家事のようなことは、いつも真宙に頼っていて。自分でやったことなんて、片手で数える程度しかしていない。

 結芽が言っていることは、間違っていないのかもしれない。

「真宙とちゃんと、話さないと……」

 私の気持ちを一方的に押し付け、真宙を押さえつけていては、同じことを繰り返す。

 落ち着いて、真宙と話し合わないと、私たちの関係は変わらない。いや、私が変わらないと、なにも変わらない。

「……早紀、本気で彼氏君のこと、好き?」

 結芽の質問の意図がわからなくて、私は首を捻る。

「彼氏君が便利だから手離したくないわけじゃないよね?」
「違う」

 好きという気持ちがどういうものかなんてはっきり言えないが、真宙が使えるから一緒にいるわけではないことはわかっている。

「……真宙がいない部屋は、広くて寒かった。私は、真宙に家事をしてほしいわけじゃない。ただ、そばにいてほしい」

 そう答えると、結芽は満足そうに笑う。

「行ってらっしゃい」

 結芽に見送られて、真宙を探す。

 だけど、真宙を見つけることはできなかった。

 真宙は、私の前から姿を消したのだった。