「あれ、早紀。腕時計が止まってるよ」

 講義が終わり、ノートをカバンにしまっていたら、友人の結芽が私の左腕を指した。

 確認してみると、今の時刻と大幅に異なっている。

「あー……本当だ」
「気付いてなかったの?」

 役目を終えた腕時計を外す。

「そんな何度も見たりしないからね」

 見ていなかったけど、そこにあるのが当たり前で、なくなると違和感がある。

 なにもなくなった手首、そして止まってしまった腕時計を見つめる。

 止まった瞬間に気付いてあげたかった。

 気付けなくてごめん、今までありがとう。

 そんなことを思いながら、筆箱に入れる。

「早紀」

 感傷に浸っていたら、結芽に呼ばれた。

 結芽はカバンを持って帰ろうとしている。

「ああ、ごめん」

 まだ机上にあるノートたちをしまうと、結芽を追う。

 そして結芽との会話を楽しんでいるうちに、腕時計が止まったことを忘れていた。

  ◆

 家に帰ると、鍵が開いていた。これは鍵の閉め忘れでも、泥棒が来たわけでもない。

「ただいま」
「早紀ちゃん。おかえり」

 笑顔で出迎えてくれたのは、隣に住む彼氏の志田真宙。こうしてよく夕飯を作りに来てくれているのだ。

「今日のご飯、なに?」
「今日は肉じゃがを作ってみました」

 真宙は得意げに言う。

「味見してみる?」
「真宙の作る料理はいつも美味しいから、今はいいや」

 肉じゃがのいい匂いが鼻に届く。

 本当は小腹が空いている。だけど、真宙の料理には不思議な力があって、少し食べると止まらなくなってしまう。

 今は食事よりもするべきことがあるため、食べたい気持ちを隠して手を洗う。

「早紀ちゃん、今日も忙しいの?」

 真宙は料理を再開する。

「課題が難しくて、なかなか終わらないんだよね」
「そっか。大変だね、理系学生さん」
「まあなんとか食らいついていくよ」

 食卓テーブルにノートと講義資料、図書室で借りてきた本を広げ、椅子に座る。それとほぼ同時に、真宙がお茶を出してくれた。

「体、壊さないように気をつけてね」
「……ん」

 資料を読み込む私は、生返事をした。

「あれ、早紀ちゃん、腕時計はどうしたの?」

 いつもなら私がお腹が空いたと声をかけるまで放っておいてくれるが、手首の違和感に気付いたらしい。

「壊れちゃって。今度新しいのを買いに行くつもり」

 筆箱の中から、止まったままの腕時計を取り出す。真宙は私に近付き、腕時計を手にした。

 真宙のものではないのに、真宙のほうが寂しそうな顔をしている。

「本当だ、止まってる。でもこれ、気に入ってたものじゃないの?」
「んー……そうでもないかな」

 たしかに長い時間使っていたけど、初めて親に与えられて、壊れないから使っていただけで、特別思い入れがあるわけでもない。

 壊れたなら、買い直す。当たり前のことだろう。

「……ごめん、早紀ちゃん。僕、用事思い出しちゃった。ご飯できてるから、お腹が空いたら食べてね」

 真宙は笑顔を取り繕うと、時計を置いて帰っていった。

 あれが嘘の笑顔で、なにか隠していることはすぐにわかった。だけど、課題の量を考えると、真宙のことを気にする時間はない。

 課題を広げ、ノートや資料を読み込む。私の理解力がないのか、課題が難しいのかわからないが、思うように進まなかった。

 気付けば日が落ちていて、窓の外は暗い。

「真宙、カーテン……」

 その先は言わなかった。

 顔を上げると、いつもいるはずの場所に、真宙の姿がない。夕飯の支度でもしているのかとキッチンを見るけど、真っ暗だ。

「……帰ったんだった」

 それを忘れるくらい、私は課題に集中していたらしい。

 重い腰を上げ、窓に近付く。

 いつも、開けるだけのカーテン。自分で閉めたのは、いつぶりだろう。

 カーテンに電気が反射し、少しだけ室内が明るくなる。

 振り向けば、いつもより広い部屋。ちょっとした虚無感のようなものを覚えながら、キッチンに向かう。

 真宙が用意してくれた肉じゃがは、熱を失っている。

 温め直してもよかったけど、肉じゃがが温まるのを待ちきれるとは思えなくかった。小皿を取り出し、肉じゃがを盛り付けると、食卓椅子に戻る。

 きっと、ご飯は炊けているだろうし、汁物も用意されている。お腹だって空いている。

 だけど私は、肉じゃがだけでいいと思った。

 真宙の作る料理はいつだって美味しくて。一度食べ始めれば、満腹になるまでやめられない。

 それなのに、今日は箸が進まなかった。