「恵実さん、現実から目をそらさないでください。逃げないでください。恵実さんが生きてくれないと、わたしは悲しいです。わたしだけじゃなくて、市川さんも、恵実さんのお母さんも、里穂ちゃんや加奈ちゃんも。桜庭書房に来てくれるお客さんもみんな」

恵実の目からとうとう大粒の涙が溢れ出す。頬を拭うこともせず、母親に置いていかれた子供のように瞳をうるませている。

「恵実さんがいなくなったら、誰がわたしに本を勧めてくれますか。誰がわたしの悩みを聞いてくれますか。その人に合った本を、選んでくれるのはあなただけです。優しく包んでくれるのは、恵実さんの言葉だけです。昴さんだって、恵実さんが今までどおり元気に生きてくることを望んでいます」

恵実はふと先ほどまで両手を合わせていた昴の墓に視線を落とした。昴がここにいる。聡明で自分のことを何よりも心配し、愛してくれた人が。

「私は、彩夏さんの言う通り、今日自分の手で終わらせようと思っていたの……。命の終わり。私の命は、どうして終わってしまうのか、分からなくて。事故なのか、病気なのか、この子が間違えて産まれようとするのか。何も分からなくて。ただ、あの日——あの時、昴さんが私の前から他の女の人と一緒にいなくなってしまった現実から逃げたくて」

『ブラック時計』を着けてから、言いようもない不安に駆られた。
寝ても覚めても、左胸の前に浮かび上がる数値に、心を奪われてしまっていたこと。
恵実は包み隠さず、彩夏に吐露する。

「得体のしれない何かに怯えるくらいなら、自分で終わりにしてしまう方が、楽だと思って。ここで、昴さんの隣で、命を終える。この子と一緒に。そのための準備もしていたの」

恵実はそこで、カバンの中に手を忍ばせる。言われなくても、そこに何が入っているのか、彩夏には想像できた。命を終えるための道具。刃物か薬か。たぶん、そんなところだろうと。

「でも、これは準備できていなかったわ。彩夏さん、あなたがここへ来ること。私の前に現れて、あの人の言葉を伝えてくれること。そんなの、聞いてなかったわ」

潤んだ瞳から溢れる涙と、半開きの唇から漏れる彼女の本音。穏やかで物静かな店長は、心の底に、燃えるような想いをたくさん抱えていた。

「……もう、時間みたいね」

恵実のブラック時計の数値が、「60」に変化した。彩夏にはその数字が見えない。しかし、彼女に時間がないことは理解できた。

彩夏にはもう、伝える言葉が残っていなかった。本気で恵実に生きて欲しいということ、昴も同じ想いだったことは、きちんと伝えたはずだ。でも、あとひと押し、彼女の決意を崩す言葉が欲しい。誰か。昴さん! 思わず、彩夏は両目をぎゅっと瞑った。

「私はこの子と——」


「いかないでください恵実さん!」

「あたしたちも店長に生きて欲しいです」


恵実と彩夏の後ろから、二つの声が聞こえて振り返る。彩夏は閉じていた瞳を少しずつ開いて。
そこには傘を差し、肩で息をしている秋葉里穂と吉川加奈が立っていた。
「里穂さん、加奈ちゃん……」
恵実の声が震える。予想だにしなかった人物の登場に、心がざわめいている。

「里穂さんが、学校から帰るときに恵実さんが歩いて行くのを見たって。私に連絡が来て、二人で待ち合わせしてここまで来ました」

加奈がここに来た経緯を語る。彩夏から連絡をもらって、二人も必死になって恵実を探してくれたとが、彩夏の胸を熱くした。

「さっきのお二人会話、少しだけ聞きました。恵実さん、どうか産まれてくるお子さんと一緒に生きてください。それだけなんです。それだけで、あたしたち嬉しいんです!」

「みんな、待ってます。恵実さんと新しい命。生きるのって、退屈じゃないし幸せなことなんだって、『ブラック時計』に教えてもらいました。友達なんかいなかった私の人生、すっかり変えてくれました。好きな人ができました。今は、明日がくるのが毎日楽しみです」

恵実さん。
三人が彼女の名前を呼ぶ。恵実が一人ひとりの目を見つめて、カバンの中に忍ばせていた右手をすっと出し、静かに左腕の『ブラック時計』を外す。

「昴さん……」
それが、合図だった。
紡がれた名が、逆に「大丈夫だよ」と語りかけているように恵実には聞こえた。
彼女は思う。昴の心の端っこでも良いから、花のように咲いていたかった。
それが叶わないかもしれないと怯えて、疑って。自分を傷つけようとしていた。

でももう、自分のことで苦しまなくていい。
もしも、昴が生きていたら自分にそう言うだろう。
昴が見ていた世界の端っこで光る、恵みの雨。
恵実の閉じていた世界が、一気に広がってゆく。
視界の中に、三人の若い娘たちの姿。隅っこに、花柄の傘。

———いいんですよ。僕は雨が好きなんです。

———じゃあ、私だって良いです。雨、好きですから。

雨の日はアンニュイな気分になる。それが好きなんだと彼は言った。
雨の日はお気に入りの傘を差せる。恵実が雨を好きな理由はただそれだけだった。
(でも)
今は、このほとんど弱まっている雨の感触に浸っていたい。
きっともうすぐ、晴れが来る。雲の切れ間から、夕焼け空が覗いているのが見えた。

「あ、虹だ」

加奈が歓喜の声を上げると、全員が彼女の声の方を見た。

そこには、ほんのりと七色の橋が架かっていた。