泣いたら負けだと思った。
気を抜けば、目の淵に溜まる、雨だかしょっぱいものだか分からない水滴が、こぼれ落ちそうだった。でも、自分はそうすべきじゃない。今からこの人に、大事な事実を告げなければならないのだから。
「昴」という響きに、恵実の顔が瞬時に強張るのが見て取れた。恵実は今まさに、昴の眠る墓の前で祈りを捧げていた。もう二度と聞こえない、その人の声を探して。
「何を……?」
突然、前も後ろも分からなくなった子供みたいにいたいけな表情で、恵実は彩夏に問う。
「『大切な人を守るために、別の女性と何度もこっそり会っている』——昴さんが、わたしに教えてくれたことです。8月の終わりでした。わたし、今朝そのことを思い出したんです。本当はもっと早くに、思い出して恵実さんに伝えていたら良かったのに」
「大切な人を守るために……?」
恵実はとっさに、自分のお腹に視線を落とした。
我が身に宿る小さな命。
私はこの命を守りたい。
でも、自分の命はもう。
左胸の前に浮かび上がる灯火のような数値を、上から読んだ。
600
600秒。あと、10分。
それだけの時間で、消えてしまうかもしれない。
「恵実さん、昴さんにとって大事な人というのは、紛れもなくあなたです。ここから先は推測になりますが」
そこで彩夏は恵実の左腕から自分の手を離した。少しずつ、雨が弱くなっている。
「昴さんが『ブラック時計』で見たものは、今恵実さんが見ているものを同じ———つまり、恵実さんの命の灯火ではないでしょうか」
「私の命……」
「そうです。お二人は、結婚記念日兼昴さんの誕生日に旅館に泊まりに行き、そこで恵実さんは昴さんに『ブラック時計』を貸しました。その日の夜、昴さんは恵実さんを見て黙り込んでしまった。きっとその時、昴さんが見たものはとても衝撃的だったはずです。何しろ、大切な人の命の時間を、見てしまったのですから。そこからお二人の生活は、ギクシャクしたものになったと言っていましたよね」
「ええ」
「昴さんはずっと考えていたんです。『ブラック時計』が見せるものが本当なら、恵実さんの命が危ない。でも、どうしてそうなってしまうか分からない。事故かもしれないし、考えたくはないけれど病気かもしれない。だから信頼できる人に相談することにしたのだと。昴さんが車の事故でお亡くなりになった際に、同乗していた女性は、会社の同僚だったらしいですね。その方は、元々医療関係のお仕事に就いていたのではないでしょうか。もちろん、『ブラック時計』のことは話さなかったと思います。もしも恵実さんが何かの病気に罹っていたとして、自分はどうしたら良いか。何か症状があれば病院に行くけれど、今のところそんな気配もない。でも心配すぎて仕方がない。こんなことを他の友達に言っても、過保護だと思われて終わるだけだ。何か、命に関わるような病気があるとすれば、何があるのか。こんなふうに、相談していたんだと考えます」
彩夏が昴についての推測を話していくにつれ、恵実の表情がみるみるうちに強張り、瞳は身開かれてゆく。
「昴さんは、恵実さんのことがただただ心配でした。だから、何も言えなかった。恵実さんに余計な心配をさせたくなかったからです。誰だって、自分の余命なんて知りたくありません。恵実さん、昴さんがたった一つ願ったことは、恵実さんが幸せでいることだったのではないでしょうか。恵実さんが思っている以上に、昴さんは恵実さんのことを考えてくれていたんです。わたしはどうしてもそれを伝えてたくてっ」
だから、熱が出て頭がふらふらでも、雨に打たれてみっともない姿になっても、彩夏は恵実に会いたいと思った。今しか伝えられない。それに、彩夏には恵実の「寿命」の原因がなんとなく分かっていた。
止められるのは、自分しかいない。