「恵実さんが行きそうなところって……?」
思えば桜庭書房以外で、彼女を見かけたことがほとんどない上に、彼女が行きそうな場所にも検討がつかなかった。
とにかく、走るしかない。
彩夏は土砂降りの中、街中を走り回った。加奈が通う美山中学、里穂が通う朋藤高校、自分が通っている三葉大学の前。
駅前、アーケード街、近所のスーパー、小さな喫茶店。
こんなふうに夢中で走ったのに、既視感を覚える。
みっともない自分を見せたくなくて、親友の目から逃れるようにして走った。ほんの3ヶ月前の話だ。あの日も今日と同じように土砂降りの雨。彩夏の身体に突き刺さる容赦のない、凍える刃。
3月。暦の上ではずいぶんと前から春なのに、どうしてこんなに冷たい。
けれど、今日の彩夏は誰かから逃げるために走っているのではない。
誰かを救うために、走っている。
だから、冷たい雨も平気だった。
「恵実さん」
名前を呼べば返事をしてくれる——恵実は決してそういう人ではない。気がつけば隣で静かに見守ってくれている。きっと、昴にとっての恵実もそんな優しい妻だったのだ。
「恵実さん、恵実さん、恵実さん」
走って、息が切れて、すれ違う人から稀有な目で見られて、そろそろ体力も限界に近かった。
闇雲に走り回るのはやめよう。彼女が行きそうな場所をもっとよく考えるのだ。午後4時35分。あと少ししか、ない。
彩夏は朋藤高校前の交差点で立ち止まり、ふと周囲を見回した。小さな洋菓子店、花屋、クリーニング屋。いや、もっと遠く。坂道、マンション、分厚い雲の向こうに連なる山。
「……あ」
朋藤高校前の坂道を登っていった先の道に、人影を見つけた。
女の人。黒髪を後ろでゆるく括っている。ふっくらとした腰回り。あれは、間違いなく。
「恵実さん!」
ふと、全身から力が抜けてゆくのが分かった。ようやく見つけた。彼女は今もなお、膨らんだお腹を抱えて坂道を登り続けている。遠くてあまりはっきりとは見えないが、左手にはめられた『ブラック時計』が黒光りしていた。
彩夏は迷わなかった。
点滅しかけていた横断歩道を全速力で駆け、彼女のもとへと急ぐ。上り坂に差し掛かると恵実はすでに坂の上にある墓地に入ってゆくのが見えた。
そこでようやく彩夏には恵実が何をしようとしていたのかが分かった。彼女が目指しているのは間違いなく、昴が眠る場所なのだ。自分の命が危ういかもしれないという時に、まっすぐに目指していた場所。もし、彩夏が恵実の立場だったら、彼女と同じことをしただろう。よく考えれば自然な行動だったはずなのに、街中を走り回った自分が恨めしかった。
全身びしょ濡れ。アルバイトで稼いだお金で買った服が台無しだ。
雨脚は一向に弱まる気配を見せなかったが、一度濡れてしまえばもう失うものはなにもない。
彩夏は最後の力を振り絞り、上り坂を一気に駆け上がった。
恵実は、あの墓の前にいる。
墓地の中へと足を踏み入れると、足下からジャリ、という音がした。
顔に張り付いた雨水を腕で拭いながら、彩夏は恵実の姿を探した。黒いワンピースに、白地にピンクの花柄の傘を指している。黒い服に、傘の模様は大変によく映えていた。場違いなくらい、明るく鮮やかな傘を目指して、彩夏は彼女のところまで歩み寄る。
芦田昴の名が刻まれたお墓の前で、彼女は傘を差して立っていた。目を瞑っているわけではないらしい。そっと、彩夏が彼女の左腕を掴む。恵実は、突然腕を掴まれてもさほど驚きもせず、ゆっくりと後ろを振り返った。
「やっぱり、彩夏さんなのね」
優しい、天からの声のような響きだと思った。この人を追いかける自分がどれほどみすぼらしい姿で目の前に立っているかと思うと、彩夏は今すぐ顔面を覆いたくなる。
「追いかけてくる人がね、彩夏さんなら良いなって、思っていたのよ」
恵実が微笑み、彩夏は戸惑う。
「どうして……」
知っていたんですか、と彩夏は聞きたかった。けれど、何かを覚悟した顔つきの恵実には、何をどれくらい予想できていたとしても不思議ではないと感じる。
「それより、こんなにびしょ濡れになって」
聖母のように、彩夏の方にあの美しい傘を差し出して、頬を撫でる恵実。
彩夏はそのまま、顔をくしゃりと歪め、溢れ出る涙を止められなかった。
「わたしっ……恵実さんに謝らなくちゃいけなくて……。探していたんです。どうしても、あなたに話さなくちゃいけないって、思って」
「謝ることなんて何もないわ。彩夏さんは私に、何も悪いことをしていないじゃないの」
優しい瞳をしたまま、恵実が彩夏をなだめるように答える。しかし、彩夏には伝えなければならないことがあった。どうしても、今この瞬間に、最大の真実を。
「いや、違うんです。わたし、昴さんから、聞いてたんです」