彩夏は、適度に休憩をしながら桜庭書房で一日過ごすことにした。市川が恵実に「アルバイトに興味があるみたいです」と理由をつけてくれ、恵実からはすんなり了承が得られた。

アルバイト経験はあるが、どれも飲食店だったため、書店で働くのは初めてだ。けれど、市川が丁寧に本の置き場所や並べ方を教えてくれたのでそれほど苦ではなかった。

もちろん、任せられる仕事は単純作業だけで、レジや接客には入らない。メインは清掃や本棚の整理。合間合間で、恵実の様子を見守っていた。

当の恵実は、確かに様子がいつもと違っていた。
彩夏がお客さんとしてお店に来る時、彼女はいつだってスンとしてレジカウンターの奥で本を読んでいるか、本棚の掃除をしていた。突然やってきたお客さんにも動じず、それでいてぼうっとすることなど少しもない。「あら、彩夏さん」と、すっと顔を上げて自分を出迎えてくれる。そんな彼女の美しい佇まいに、何度惚れ惚れしてしまったことか。

それが、今日の彼女はどうだ。
「お客様、もしもビジネス書にご興味がお有りなら、こちらの本も……」
「すみません。そっちは興味ないんです」
ビジネス書コーナーで「ビジネス文書」の本を立ち読みしていた男性のお客さんに、『失敗しないスピーチ術』という話し方の本を提案していた。明らかに、その男性が求めていたものではない。素人の彩夏にも分かった。

さらに、レジに立つと値段を打ち間違えたり、カバーをかけて欲しいというお客さんに、カバーなしで本を渡したりしている始末。失敗するたび、「申し訳ございません」と頭を下げる彼女が、小動物のようにか弱く見える。

そして、最後に気になったことが一つ。今日の恵実は、仕事で失敗した際に必ず、左手を左胸にぎゅっと押し当てていた。暴れている心臓を抑えようと必死になっているとも言えるが、あまりにその回数が多いため、それに何か別の意味があるように思えた。

午後6時、閉店時間。
恵実と市川と彩夏の三人で、お店を閉めた。お客さんのいなくなった店内で、恵実が売上金を数え終わると、彩夏に向かって「今日はありがとう」と言った。
「恵実さん、今日は恵実さんに聞きたいことがあって、来ました」
実際は市川に呼び出されたのだが、こう伝えた方が彩夏には切実な気がした。
「あら、そうだったの。それなら、もっと前に聞いてくれてもよかったのに」
「いいえ。込み入った話だったので」
「……そう」

恵実が膨らんだお腹に手を当て目を伏せた。彼女自身、これから彩夏が聞いてくることを予感しているらしい。
「私も、店長に聞きたいのです。彩夏さんがこれから言うこと。だから、お願いします。話を聞いてください」

二人の女子大生に頼まれて、恵実は少しだけ目を逸らしたが、彼女の右腕を、彩夏がそっと掴んで離さなかった。
「市川さんから、ここ数日間恵実さんの様子がおかしかったことを聞きました。わたしはそれを確かめたくて、一日恵実さんのことを見ていました。そうしたらやっぱり、彼女の言う通りでした。恵実さんが今、何を不安に思っているのか、教えて欲しいです。役に立たないかもしれませんが、わたしも市川さんも、恵実さんのことが心配だから」

静寂の店内が、恵実の言葉を待つ二人の気持ちと重なり、「ゆっくりでいいから、話して」と囁いているようだった。

恵実は、右腕を彩夏に掴まれたまま二人の目を交互に見つめ、口を開いた。

「私ね、たぶん死ぬの」

頭を固いもので殴られたような衝撃が、市川と彩夏の中で走った。
恵実が空いている左手でお腹を抑えて寂しそうに眉を下げたその表情を、目の当たりにした彩夏は瞳を大きく広げ、彼女から目を逸せなくなった。
「どういう、ことですか」
ようやく絞り出した声が、明らかに震えている。恵実を掴んでいた手を離す。彼女の右腕にうっすらと赤い跡が残って、次第に消えていった。
「……これ」
右腕を解放された恵実が、スカートのポケットからあるものを取り出して二人に見せた。
「『ブラック時計』……」
着けたんですか。
と、彩夏が聞くまでもなかった。彼女は自分の左腕にそれを巻き、窓の側に歩み寄った。外が暗いため、窓は店内の様子を映し出している。そこに、恵実の姿がくっきりと入り込む。 彼女は左手で窓に触れた。
「ここに、私の命の灯火が見えるの」
「ともしび?」
「ええ。私の左胸の前。つまり、心臓ね。そこに命の時間が刻まれてるわ。残りはあと、23時間。1日もないみたいなの」
「それは本当なんですか……?」

『ブラック時計』を着けたことのない市川が訊いた。彼女にとって、時計のことはまるきりファンタジー。恵実の話が信じられないとしても不思議ではなかった。

逆に彩夏はというと、恵実の口から紡ぎ出される彼女の真実に、頭が眩みそうになるのを必死に耐えていた。『ブラック時計』の効果が本当だと信じている彩夏だからこそ、恵実の言葉が、重くのしかかる。
「残念ながら、本当みたい。何がどうなって死んじゃうのか分からないけれど」
「で、でも! 恵実さんが見ているのは、灯火とか何かの数字とか、そういうのですよね? はっきりと『死にます』だなんて書いてないんでしょう!?」
「そう、数字よ」
「だったら、分からないじゃないですか! 本当はもっと別の意味があるのかも……!」

彩夏は必死だった。
恵実が死ぬという現実から逃れようと躍起になって叫ぶ。
しかし、恵実は悲しそうに首を横に振って、今度は彩夏の方を振り返った。

「自分のことだから、分かるの。彩夏さんだって、自分が時計を着けた時、好きだった先輩の頭の上に女の子の名前が見えたと言っていたわね。でも、その名前だって片想いをしている相手の名前です、だなんて書いていなかったでしょう?」
「それは……」
「きっとあなたが、自分で気づいたはず。だから私も、分かっているの」
「……」
市川も彩夏も、あまりに突然のことで思考が追いつかない。けれど、どうやら恵実の命が幾ばくもないことは本当らしいということだけは、二人の胸に確かに浮かび上がった。
これ以上、三人の間に言葉は生まれなかった。複雑な胸の内を、どう表現したら良いのか。
閉店後の桜庭書房の静寂は、何も教えてはくれない。