彩夏は考えていた。
里穂から『ブラック時計』の話を聞いたその日の夜、寝付けずに目を瞑ったまま、恵実のことを思う。鎮まり返った部屋の外で、ポツポツと雨音が地面を跳ねる音が聞こえた。雨は、ようやく小ぶりになっているようだ。

里穂も加奈も恵実のために協力してくれている。でも、自分が一番頑張らないといけないという自負があった。『ブラック時計』を着けた三人の中で、彩夏は一番恵実の近くにいる気がした。他の二人は自分より年少で、さらに時計の一件の前から恵実や昴と面識があったのだ。
「昴さん」
その人の名前を、彼女は久しぶりに呼んだ。
何度か会っただけの間柄なのに、あの穏やかな人柄と話し方が特徴的でよく覚えていた。赤の他人からしても、不思議なほど親しみやすい人。それでいて他人との距離感がしっかりと保たれていおり、初対面の時から臆せず会話ができた。
何より、昴がお店で恵実と話しているのを見たとき。
二人ともあまりに幸せそうで、見ている彩夏の頬が緩んでしまうほどだった。
「だめだ」
恵実や昴のことを思い出しているうちに、余計に眠れなくなる彩夏。何でもいいから、何をしてでも、恵実の気持ちを前に向かせられることはないか———。
半ば強引に、彼女と自分との間の思い出から彼女を元気づけられそうなことを探す。
思い出せ、思い出せ。
何か、あるはずだ。
根拠はないけれど、何かを忘れているような気がした。


『彩夏さん、今日お店に来てもらえませんか』
桜庭書房のアルバイト店員、市川真奈から連絡が来たのは、彩夏が悶々と芦田夫妻のことを考えた翌日だった。
市川とは秋葉里穂の一件で連絡先を交換していた。同年代なので、店員と客というよりは友達のようだ。

2月28日日曜日。今年は閏年ではないため、2月は今日で最後。朝、9時に目を覚ました彩夏がスマホの電源を入れ、最初に目にしたメッセージがそれだった。
『分かりました。支度して向かいます』
市川からお店に来てなんていう連絡が来たのは初めてだったため、彩夏は少し戸惑った。けれど、真面目そうな彼女のことだから何か訳があるに違いない。
ベッドの上で大きく伸びをしてカーテンを開ける。寝不足のせいか、目の下が腫れぼったい。
今日は、晴れ。昨日の雨が嘘のように窓から差し込む朝の光が暖かい。
「市川さん、どうしたんだろう」
彼女とは連絡先を交換したが、朝急に来てくれなんて言われるのは珍しい。市川からすれば、彩夏はお客。お客さんを店員が呼び出すのだ。急な用がなければ絶対にない。
彩夏はとにかく急いで支度をし、家を飛び出した。