視力は、一度失ってしまうと基本的には戻らないと言われている。恵実の目は、両目とも0.1を下回っており、普段はコンタクトをはめる。もう、何十年もそうしてきた。子供の頃から本を読むせいか、近視は自然と進み、今では乱視も混ざっている。

だから、夜寝る前にコンタクトを外すと、恵実の世界は一瞬にして輪郭をなくす。
長年、一日中矯正された視界の中にいるため、むしろこっちが正常な見え方で、寝る前の視界が夢なのではないかと錯覚する。

2月の終わり。半月前に一瀬彩夏と吉原加奈に昴のことを話してから、恵実の左腕にはめられた『ブラック時計』。最初、それが見せるものを瞬時に解読することができなかった。けれど今、彼女はうっすらと理解していた。
昴の話をした翌日、朝起きて恐る恐る腕に付けた『ブラック時計』は、ひんやりとしてどこか浮世離れしているように感じた。
時計を着けた瞬間は、特に何も起こらなかった。里穂や彩夏、加奈の話によると、時計の効果は見えるようになる何かの「対象」に触れなければならないと推測していた。たとえば、里穂ならば「テストの答案用紙」、彩夏は「想いを寄せる先輩」、加奈は「黒猫」。

そうだとすれば、自分は何に触れたら良いのだろう。
考えながら、身支度を整えるために瞳にコンタクトレンズを入れようと鏡の前に立ったときだ。
「数字?」
恵実はにじむ視界の中で、自分の左胸の前に何かの数字が浮かび上がるのを目にした。反射的にぱちぱちと瞬きを繰り返し、急いでコンタクトを装着。

1,209,600

開けた視界の中でとらえたその数字は、文系の彼女が一瞬何と読めば良いか分からない桁数をしていた。
「なに、これ」
ひゃくにじゅうまん、きゅうせんろっぴゃく
と、心の中で唱えるうちに、数字がどんどん少なくなってゆく。

1,209,595
1,209,590
1,209,588

「1」ずつ減ってゆくその数字は、何を意味するのかは分からないけれど、何かのカウントダウンであることには違いなかった。
自分の左胸に触れても、数字がなくなることはない。
これは、私の身に何かが起こるまでのカウントダウン……?
だとすればそれは、幸せなことだろうか。悲しいことだろうか。
もしや、と思い膨らんだお腹に手を当てた。
この子が生まれてくるまでの時間かしら。
もしそうなら、普通に生まれてくる時間なのか、はたまた何か危険なサインなのか。しかしそんなことは考えたくない……。

数字のことで頭がいっぱいになった恵実は、とてもじゃないが身支度どころではなくなってしまった。幸い、今日と明日は仕事を休みにしていたので、ひたすら目の前の問題に向き合うことができるのだけれど。
「どういう意味なのかしら」
これまで、あらゆるミステリ小説を読んできた恵実でも頭を捻らせる。左胸の前で次第に減ってゆく数字が、灯火のようだと思った。
「灯火か……」
自分で想像した言葉が、頭の中で明滅する。「灯火」から連想される「命」という文字が無意識に浮かんでは消えた。
そんなこと、ないわよね……。
依然として一定のリズムで減り続ける胸の数値を見て、それがぴったり一秒刻みであることを理解する。

もしこれが、一秒のカウントダウンだとして。
初めに目にした1,209,600秒は何時間、いや何日分の数字なのだろうか。
恵実は紙とペン、電卓を用意し件の数字を計算しようと試みた。
計算したとしてそれが何を意味するのかまでは分からないのだけれど。それでも恵実は、昴の真実を知るために少しでも手掛かりと思われるものがあれば、解読したかった。
紙に謎の数字を書き連ねつつ、ああでもないこうでもないと電卓を叩く。全てを計算し終わったところで、恵実はペンを置き、壁にかけてあったカレンダーを見やる。

1,209,600秒は、日数にして14日。あと、2週間。
何かが、起こるのだろうか。
幸せなことか、悲しいことか。
彼女は左胸に右手を当てて、ぎゅっとその手を握った。自分の心臓はこの手の下で静かに脈打っている。昴の心臓はあの日、止まってしまった。そう思うと、彼女はいてもたってもいられなくなっていた。

これからの2週間を考える。まだ何が起こるか分からない。でも、検討はついていた。
「一緒に、来てくれる?」
お腹の中にいる胎児に聞かせるように、彼女の右手が今度はお腹を撫でた。その日がくるまでに、真実を知るのだ。
恵実の部屋に差し込む朝陽が、カーテンの隙間からこぼれて、ベッドシーツの上にまだら模様をつくっていた。