カタン、と恵実は手に持っていた湯呑みをテーブルの上に置いた。これで、自分が話せることは全てだと言うかのように。

彼女が二人の若い聴衆を見ると、二人とも眉根を寄せて恵実の方を見ていた。中学生の加奈の方は肩をぎゅっと縮こまらせ、まるで怯える小動物だ。中学生には少し刺激が強すぎたかと恵実は思った。
「……ひどい」
彩夏が呟く。むろん、「ひどい話だ」の意味だということは恵実も理解した。しかし、恵実にとっては、昴が最後に女の人と一緒にいたということも引っかかることだった。だから、ひどいのが、昴がいなくなってしまった現実なのか、彼が隠し事をしていたことなのか、自分でもよく分からなかった。

「わたし、知らなかったんです。昴さんと恵実さんが、『ブラック時計』という代物のせいで悩まされていただなんて。昴さんが交通事故で亡くなってしまったのは知っていました。でも、そこに至るまでに、二人の間に葛藤があったんですね……」

彩夏が、気づかなくてごめんなさいと、頭を下げた。恵実はそんな彩夏の態度に驚き、すかさず「違うわ」と口を挟んだ。
「彩夏さん。彩夏さんはお客さんで、私たちのことを知らないのは当然だわ。『ブラック時計』のことだって、きちんとお話していなかったんですもの。だからそんなふうに、謝らないで」
彩夏には、恵実の言葉が苦しかった。彼女の話を振り返りながら、彼女の力になりたいとも思った。
恵実が今でも、昴の心を知れずに苦しんでいることを知って、なんとかしてあげたくてたまらない。けれど、一介の学生でしかない自分に何ができるというのか。
加奈の方も、同じ気持ちだった。恵実に『ブラック時計』を付けて欲しいと頼まれて自分は散々良い思いをした。でも、恵実が自分に時計を付けてと頼んだのに、こんな理由があっただなんて。なんて切なくて苦しいのだろう。
「わたし、今日は帰ってもいいですか。ちょっと、考えたくて」
ままならない現実。
きっと自分たちには何もできないのだと、痛感した一日。彩夏テーブルの上のものを片付けると、加奈も慌てて立ち上がった。
「ええ。ごめんなさいね、長話に付き合わせて。もう暗くなってるわ」
恵実が言う通り、外は薄暗くなっていた。彩夏も加奈も時間を忘れて恵実の話を聞き入っていたのだ。
「こちらこそ、恵実さんの話を聞かせてくれて、ありがとうございました。わたし、諦めたくないです。恵実さんが前に進めるように、昴さんの本当の気持ちを、知りたい」

どうすれば叶うのか分からない。
でも、恵実さんを想う人たちはたくさんいる。自分や加奈や、それにここ桜庭書房を訪れるお客さんたち。
彩夏は、そっとお腹を撫でている恵実の、憂いの混じった表情を瞳の奥に焼き付けた。
彼女に、もう一度笑ってもらえるように、見つけよう。昴さんの真実。
彩夏と加奈が目を合わせて二人で頷いた。
恵実の、止まってしまった時間のネジを、自分たちが巻いてみせるのだと。

その日の夜。恵実はベッドの中で眠れずにいた。昴がいなくなってから、こんな夜は何度もあった。絶望、という言葉が適切なのか分からないほどに、深い谷に堕ちて出られなくなってしまって。一度目を閉じて眠ろうとしても、朝目を覚ました時の虚しさを思うと、到底寝付けなかった。
彩夏と加奈に、自分と昴の全てを話してしまった。
それが正解だったかどうか分からない。二人がお店にやってきて、

——わたし、思い出したんです。『ブラック時計』、本当は昴さんのものなんですよね? 昴さん、いつもその時計をつけていた気がするんです。

という彩夏の言葉を聞いた途端、これまで抱えていたものがサイダーの泡のように溢れ出して止まらなかった。
彩夏や加奈にとっては、聞きたくない話だったかもしれない。とくに加奈はまだ中学生。彼女の歳で昴の話を聞くのは重たすぎただろう。
「だけど……」
すがるしか、なかった。
お腹の中で、新しい命がむくむくと大きくなるのを感じるにつれ、昴なしで自分が生きる意味を否応なしに考えなければならなくなって。
真実を知る以外に、この先前へ進んで行く方法が思いつかなかった。