それから、私たちはまた以前のように、普通に会話をして過ごす夫婦に戻っていた。昴さんは相変わらず、時々切なげな表情をすることがあるけれど。
「恵実さん、最近はなんだか楽しそう」
アルバイトの市川さんが、本を運びながら鼻歌を歌っていた私を見てそう言った。
「そうかな」
「ですよ。ひょっとして、旦那さんと喧嘩でもしていたんですか」
「うーん、そうだね」
あれは、喧嘩だったのだろうか。
彼が秘密を隠し、私が一方的に不安になり。
お互いに口を利かなくなったあの二日間、私たちは相手のことを憎いなど思ったことは多分ないだろう。
「喧嘩、終わったから」
それでも、この複雑な夫婦のもつれと雪解けについて、大学生の彼女に理解してもらうのは難しいと感じて、喧嘩から仲直りしたということにしておいた。
「そうなんですね。でも良かったです」
「良かった?」
「だって、店長が元気だと、本たちが喜んでるように見えるから」
この娘は、時々こういう人の心を鷲掴みにするようなことを言う。そういえば採用時の面接の際も、「本が笑っている日常にしたい」と、瞳をきらきらさせて語っていた。

「たくさんの人に本が読まれれば、この子たちも、きっと幸せだと思うから」

本を、ただ文字が羅列してある紙としてではなく、生命のあるものとして扱っている彼女が、これまで当たり前のように本屋を営んできた私にはまぶしかった。

「ありがとう。市川さん」

彼女がにこりと笑う姿を見て、私は自分だけじゃない、彼女や彼女の大好きな本たちがもっと幸せになれる世の中になればいいと心の中で祈る。

仕事終わりにはまた昴さんが桜庭書房に寄ってくれるようになった。抱えていたプロジェクトが終わり、結果も期待していた通りだったそう。「しばらくは定時に帰れるから」と足繁くお店に通ってくれた。仕事終わりなので、お店も閉め終わったあとになることが多かったが、彼が来てくれるだけで、私は嬉しかった。
「今日も一緒に帰ろう」
彼が「ごめん。でも言えないんだ」と告げたあの夜から3週間が経ったが、その日以降、彼は私に対し、どこか慎重になっている気がする。もちろん、以前のように普通に話せるようになって嬉しいのだが、過剰に私のことを心配しているとでも言うような。

たとえば、彼が仕事で少し遅くなる日、いつもなら「今日はお店に行けない」と連絡が来るだけで、そういう時私は一人で帰るのが普通だった。
しかし、最近では彼が仕事で遅くなる時、「ちょっと待っていてほしい」と先に家に帰らないようにお願いされる。「どうして?」と聞いても、「今日は一緒に帰りたい気分だから」と分かったような分からないような理由を言われた。

それなので、私は最近ずっと昴さんと一緒に帰路についている。嬉しいことではあるけれど、彼の行動は少し異常だった。
でも、私は彼の少しおかしな行動に、目を瞑っていた。
これ以上、彼との仲が崩れるのが嫌だった。
今だって、彼と会話ができない毎日よりはよっぽどいい。
彼の過剰な心配も、自分に無関心になられるよりはましだ。それ以外は全然不満なところは何もないのだから。
そうやって、私たちは普通の夫婦生活を、これからもぬくぬくと送ってゆくはずだった。
 
1週間後、彼が知らない女の人と、交通事故でこの世を去るまでは。

右目の端から左目の端。
次々と車が通り過ぎてゆく。
車に乗っている人たちは、これからどこに行くのだろう。仕事に行くのかもしれないし、家に帰っているのかもしれない。どちらにせよ、彼ら彼女らは着実に前へ進んでいる。

けれど、私はもう、前進する力を失ってしまった。あの日から、彼のいない現実が夢の中みたいにふわふわと漂って、歩いても歩いても、私の行きたい場所にはたどり着かない。

右目の端から左目の端。
彼がどこからか、車に乗って私を迎えにきてくれたらいいのに。