カタリ、と。
彼が眠ってしまったのを確認してから、気づかれないようにベッドから起き上がり、寝室の机の上に置かれた腕時計を持ち上げた。
ブラック時計。
きっとこの時計に、秘密がある……。
もう、間違いなかった。
彼の様子がおかしくなったのは、この時計を彼が着けてからだ。きっと何か悪いものを見てしまったのだ。彼の口を数ヶ月間も塞いでしまうほど、恐ろしい何か。それとも、時計が原因というのは見せかけで菜乃が言った冗談の通り、女の人がいたりして。

いいや、私は何を……。
ベッドから、彼の寝息が聞こえてきた。この時計を着ければ、彼が見たものを知ることができるのだろうか。
ううん、ブラック時計を付けても、何が見えるかはその人次第なのだ。たとえ私が時計を付けたとて、彼と同じものを見られるとは限らない。
それに、何よりも、怖い。
長い間、彼の口を閉ざしてしまうほどのことを、この時計は私にも見せるかもしれない。そう考えると、想像だけでも指先が震え、ブラック時計をまた元あった場所に置き直してしまった。

結局私は、臆病なままだ。
変われない。不安と、あの人の抱えているものを知りたいという欲求で眠れない夜。月明かりが、机の上の『ブラック時計』を照らしている。いつも、きっちりとカーテンを閉めているのに気がつかなかった。今日は彼が帰ってきてから怒涛の展開で、寝る前にカーテンを引っ張ることさえ頭から抜け落ちていたんだ。
でも、丁度良いかもしれない。
あの日からずっと、心が独りのままだから。
せめて月の光だけでも、寄り添ってくれたら、淋しさを振り切ってなんとか眠りに落ちてゆくことができるのだから。

「いってらっしゃい」
「いってきます」
という言葉が、ここ二日間夫婦の間で消え去っていた。二人とも、そうしたかったわけじゃない。普段の会話が減って関係がぎこちなくなっても、「おはよう」や「いってらっしゃい」の挨拶くらいはできるものだと思っていた。
しかし、思いの外、先日の件で私たちの心は傷ついていたらしい。らしい、なんて他人事のように聞こえるかもしれないが、ここ数日間の自分の心境の変化に、自分自身追いつけていない節があった。

彼と言い合いになった翌日、つまり昨日だが、私は彼に一言「おはよう」を言えなかった。そうなると、彼の方も私に何も言葉をかけないと決め込んだのか、一日中、私たちは会話をしなかった。嘘みたいな話だけれど、本当のことだ。といっても、私はその日仕事が休みで彼は例によって残業をして帰ってきたため、会話をする機会は朝と夜の限られた時間。それでも、「一言も口を利かない」という状態を私たちが保てるなんて思ってもみなかった。

実際、同じ屋根の下に過ごすもの同士、口を利かないで一日を過ごすのはそれほど難しいことではなかった。生活のリズムが決まっているから、朝ごはんの時間に朝ごはんを食べてもらい、夜ご飯の時間に夜ご飯を食べてもらうだけで良かった。
その後は読書なりテレビを見るなり、好き勝手に過ごしていれば、あとは寝るだけ。
なんて、楽ちんなんだろう。
……なんて、思えれば良かったのだけれど。
正直、とても淋しいと感じた。これなら別々に暮らしたほうがましだと思えるほど、冷え切った食卓、朝を迎えたときの虚しさが堪えた。二日目の今日も、朝からお互い何も言葉を発さないで、今、彼の帰りを待っている。彼は今頃、今日はどうやって寝るまでの時間を無言で過ごそうかと画策しているのかもしれない。

きっと、私だけだ。
私だけが、一人、だだっ広い城の中に閉じ込められたような感覚に陥っているのだ。積み重ねてきた昴さんとの日々が、ジグソーパズルのピースのように一枚ずつ剥がれてゆく気がしている。
こんなことなら、知ろうとしなければ良かった。
その方がまだましだっただろう。彼は彼の秘密を抱えたまま、それでも愛し合って生きていくのだ。以前より会話が減ったって、構わない。だって私たちは夫婦なのだ。夫婦なら、少しずつ会話がなくなっていっても、心の絆は深くなる。と信じている。