彼は何て。
その言葉に、私ははっと俯いた。考えてみれば私、彼から何か事情を言われたことがあっただろうか。その前に、彼に何か聞いてみようとしただろうか。「なんでもないよ」「そうなの」の二言で、二人の問題を先延ばしにしていたかもしれなかった。
「……何も」
「あらら。それはよくないわよ」
「そうよね。今、あなたに言われて焦った。私は何も知らないんだなって……」
昴さんがどんな気持ちで私との会話や行為を避けているのか分からない。少し聞いてもいつも、大丈夫、の一言が返ってくるだけで、それ以上追及しないでくれと言われているようだった。もともと、私も他人の事情を深く探るタイプの人間ではなかったため、「彼が大丈夫だというなら」と諦めてさえいた。
「分かった。また、あれでしょう。他人に気を遣って言いたいことが言えないやつでしょう。恵実の悪い癖だよ、それ。私にはなんでも話してくれるじゃん。今みたいに、昴さんに不安に思ってることを聞いてみればいいのよ。旦那さんは、他人じゃなくて家族なんだから」
家族。
ぐわんと、感情の波が押し寄せるのを感じた。
彼が、家族であることは分かっていた。十分理解していた。同じ家に暮らし、同じ時間を共有し、一緒にご飯を食べて休みの日にはお出かけをする。そんな、家族として当然のことを、これまで当たり前に経験してきたのに。
大事なことは何も伝えられていない。
お客様と店員という立場から始まった私たちの関係は、今もどこか他人行儀だったのかもしれない。
私は、湯気が立たなくなったコーヒーを啜った。苦い。苦いのは苦手なのに、自分の目を覚まさせるようにもう一口含んだ。
「そうだよね。家族なんだよね、私たち」
なぜ、気づかなかったのだろう。
たまには遠慮せずに思っていることを思い切り言い合えるのが家族ではないか。客と店員という立場なんか、とっくの昔に捨て去った。
「そうよ。もし、恵実が本心を伝えても彼が動かなかったら、それはもう浮気を疑うしかないわねえ」
悪戯っ子の笑みを浮かべる我が親友。
「変なことを言うの、やめてよ」
思わず頬を膨らませて彼女を睨む。
「ごめんごめん。ま、あの優しそうな昴さんが浮気なんかするわけないわよね。うちの旦那だって多分今のところは大丈夫だし」
彼女のブラックなジョークは、苦いコーヒーを飲んだばかりの私には丁度良かった。
「もお」
美人なくせに、怖いことを言う彼女だけれど、人生の先輩として見習わなくちゃいけないところもある。
大事なことは、家族であっても言葉にしないと伝わらない。
今夜、彼に話してみよう。怖いけれど、このまま何もしないで後悔するのは嫌だ。まだ始まったばかりの私たち家族の未来がちょっとでも明るくなるように。
菜乃の胸の中で寝ていた湊くんが目を覚ます。「ウー」「アー」と手足をばたつかせる様子が可愛らしい。お腹が空いたのかな。なんだか、「早くこの抱っこ紐から飛び出したい!」と足掻いているようで、まぶしかった。