私と昴さんは、夫婦になっても私たちのままだった。
「家事と育児するだけで、一日終わっちゃうよ。ほんと、新しい趣味でも見つかんないかなー。恵実はいいよね。新婚さんだし」

水曜日のお昼。仕事で休みをとれた日に、友人の菜乃宅に行くと、彼女は3ヶ月前に生まれた子供を抱いて待っていた。今度は男の子。上の子はもう3歳になっていて、今は保育園に預けているらしい。
「それを言ったら、菜乃だってまだ新婚じゃないの」
「やめてやめて。もう3年だよ? て、まあ確かに3年は新婚なのかー。結婚する前に娘ができてたからな。旦那と二人でゆっくりする暇がなさすぎて、もう完全に、この子たちの父親と母親ってカンジ」
彼女は、自分の現在の状況に色々不満があるのだろうけれど、私からすれば、その不満も含めて、今の生活を楽しんでいるようにも見えた。

「仕事はどうなの? 結婚してから変わった?」
昴さんと籍を入れたのが4月。ちょうど3ヶ月前だ。プロポーズを受けてからお互いの両親に挨拶をし、さらに両家で挨拶をするという風習がひどく長い道のりに感じた。品の良い店でご飯を食べるだけでも緊張するのに、初対面の親同士とその場の雰囲気を円滑にしなければならないとなると、私も昴さんも終始落ち着かなかった。

母は、言わずもがな結婚に大賛成した。こんな良い人、なんで今まで紹介してくれなかったのかと上機嫌だった。母にしてみれば、相当悪そうな男でない限り、大抵が「良い男」になるのだろう。ただ、昴さんは母の期待以上によくできた男性だと思う。
昴さんのお母さんにも、快く受け入れてもらった私は、晴れて「芦田恵実」となった。
式は挙げていないけれど、慎ましやかな幸福に包まれて、とても満足だった。自分の人生に、まだこんな陽だまりみたいなイベントが待ち受けていたなんて思いもよらないくらいに。

「これまで通りよ。時々、昴さんが手伝ってくれるけれど」
「なにそれ。本当、素敵な旦那さんね」

彼女の腕の中で、赤ちゃんが声を上げて泣き始めた。菜乃は、「よしよし」と全く動じずにあやしている。以前なら、自分とあまりにライフステージがかけ離れた彼女を見て、心がずっしりと重くなる感覚があった。けれど今、私も彼女の一歩手前のステージくらいまでは進んでいる。どちらが優れているという話ではないが、結局のところ私も母と同じように、世間一般の人たちが考える「理想の女性ライフ」のレールから脱線することを恐れていたのかもしれない。
「私には、もったいない人だよ。あの人は」
言いながら、自分でも少し恥ずかしかった。口の中で、しゅわっと柑橘系の香りが爆発したような感覚。彼女の方も「ほほう」とにやにやしながら私を見た。学生時代、友達の誰それが、〇〇君のことが好きだとか、どうしたらお付き合いまでこぎつけるかなど、飽きずに話していた彼女の姿が浮かぶ。
あれから、ちっとも変わっちゃいない。
 
昴さんは、自分の仕事が早く終わると、必ず桜庭書房に来てくれた。残業することも多く、毎日忙しそうなのに。私のほうは、毎日少しのお客さんに笑いかけ、本の整理をしていればほとんどの仕事が終わるのだ。なにも、そこまでして来てくれなくても大丈夫なのになあと、思う。でも、彼の優しさは単純に嬉しかった。ほら、ダイエット中の甘いものって絶対いらないものなのに、差し出されるとつい手を出してしまう。そのままパクリと。それと同じで、差し出された彼の優しさを、私はしっかりと両手ですくってしまう。本当は早く家に帰って疲れを癒してほしいという気持ちもあるのだけれど。

でも、彼がお店の閉店作業を手伝ってくれるおかげで、肩こりが楽になった。それに、二人の新居に帰る道だって、一人よりも二人の方が絶対に楽しい。今は夏場なので、夜は川沿いを歩いて帰った。そういう時はいつも彼の隣で、鼻歌を歌い出したい気分になる。
ちょっと遅くなったけれど、絵に描いたような幸せを手に入れてしまったのだ。