「美味しいお店」というのがどこのことなのか全く見当はつかなかった。けれど、2月27日、いつも乗っている電車から別の電車へと乗り換えて、7駅先まで向かった時には、「ああ、ここか」と納得した。
私たちの住んでいる地域の中では、美観地区と呼ばれる街。街の西側を流れる大きな川に、煉瓦造りの建物が集っている。背の高いマンションは一切なく、建物の色は大体茶色や白色をしていた。
おなじみのコンビニでさえ、茶色、紺色、深緑色に統一してあるから面白い。

美観地区の駅に降りた途端、彼は少し緊張したのか、首元の襟を触った。緊張すると着ている服を触る癖があるのだ。私は、初めて行ったデートのことを思い出す。あの時もきっと、二人とも緊張していた。彼はあまり表情に出さないけれど、たくさん汗をかいていた。私は足首を捻って転びそうになった。

懐かしい。二人で初めて手を繋いで歩いた。久しぶりにお洒落をしていた。今日、私は白いワンピースに水色のセーターを合わせている。ちょっと若すぎたかしらと思ったが、特別な日ぐらいは許されるだろう。
2年前と同じように、私は彼と手を繋いだ。彼の手は例によって少し汗ばんでいた。
「よし、着いた」
川沿いをしばらく歩いて、一軒のお店の前で彼は立ち止まった。どうやらフレンチレストランらしい。異国情緒のある佇まい。童話にでも出てきそうな可愛らしさとお洒落な空気を纏っている。
フレンチレストランなんて、初めてだわ。
きっと彼の方は、会社の付き合いで何度も行っているのだろう。堂々とした足取りでお店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」 
店の奥の方から上品な声が聞こえて、彼は予約していた芦田ですと告げた。「どうぞ」という店員さんの案内にしたがって、私たちは窓際の席についた。円テーブルなのに、椅子が二つとも外の方に向いている。目の前には、川が流れている。つまるところ、景色が最高だった。

こんな素敵な雰囲気のお店に来られるなんて、夢みたいだ。
おそらく、自分の年齢の人なら場慣れしていてもおかしくないような空間。でも、彼と出会うまでは色恋沙汰にも会社勤めにも縁のなかった私にとっては、特別だった。
「乾杯」
いつかと同じように、私たちはワインで乾杯をして、運ばれてくる料理に夢中になった。小さく盛られたマリネや鴨ロース。口の中で溶けるポタージュ。クリーミーなのにちょっと酸味のあるソースに包まれた白身魚。

どれも、初めての味だった。自分では長いこと生きてきたはずなのに、知らない味がまだあったなんて。自然と、表情が緩む。どの料理も美味しくて素敵だ。窓の外を流れる川が、余計に気持ちを大きくさせる。私が望んでいた、穏やかで幸せな日々。この人となら、いつまでも送れる気がした。
「どう?」
「美味しい。とても」
「それは良かった。探すのに苦労したんだ」
「ありがとう」
「どういたしまして。といっても、僕が来たかっただけなんだ、君と二人で」
彼の手が、すっと私の前に伸びてきた。びっくりして視線を下げると、彼の掌に、きらりと光る指輪が乗っていた。
嘘だ、と思った。失礼だけれど、こういうのは小説や映画の世界の話だと思っていたから。
目の前で起こっていることが、とても自分の身に関係があることだなんて、信じられない。
それでも、彼の真剣なまなざしが私の瞳を捉えて、私はこれが現実なんだと知った。
「結婚して欲しい」
そんな、シンプルな言葉だけだった。この場に必要なのは、前置きも修飾も何もいらない。答えはただ一つ、この場に私がいて、昴さんがいて、私たちがずっと一緒にいたいということだけだ。
「はい」
先程までお腹の底で暴れていた緊張と、懐かしさと、戸惑いと、新鮮な心地が、一気にすとんと沈んだ。沈んで、収まるべき場所に収まった。

彼と出会ってから、この言葉を聞くまで、最初から決まっていたみたいに。私たちは映画のストーリーの中にいて、一緒になることはシナリオだった。母があれほど私に「結婚」を急き立てたのも、焦ってなどいないはずなのに母の言葉にそわそわしてしまう自分がいたことも。
これほどたやすく、「はい」という返事がするりとこぼれてしまったことも。
「ありがとう。幸せにするよ」
私たちは、店内の淡い光の中で、静かに口付けをした。

一週間のど真ん中。もし今日が休日だったならば、たくさんの人の目に触れていただろう。けれど、今日はほとんど誰にも見られていないだろう。もちろん他にもお客さんはいたけれど、まばらで皆自分たちの世界に入り込んでいるのだから。

目の前を流れる川が、映画のワンシーンを思い起こさせる。私は、生まれて初めて自分が人生の主人公になった。これまでひっそりと、目立つ人たちの輪には加わらず、誰にも迷惑をかけないであろう仕事に就き、自分と家族と少しの友人たちとの間で生きてきた。ほとんどの場面で、私は脇役だった。友達の話を聞いている時は、彼女が。母とお出かけしている時は母が。お店で働いている時はお客様が。私にとって、私の周りの人たちは、私の人生の中で唯一物語を進められる人だった。
それが、今はどうだ。
私が、私の人生を進めている。
「はい」か「いいえ」のコマンドを自分で選択し、これから進む道を一つに絞った。それはある意味、可能性を狭める行為なのかもしれない。でも、そうやって誰もが選択する。選びとる。自分の人生を、歩む道を。
彼の息遣いが、いつもより深く聞こえる。耳が冴えているのか、心が通じているのか。今日ばかりは、彼の正面に座らなくて良かったと思う。これから彼と一緒になる喜び、自分の人生を確かに掴み取った喜び、二つの喜びで人生最高潮に頬が緩んでいるでしょうから。

「これから、よろしくお願いします」

彼に向かって頭を下げ、彼と呼吸を合わせてみる。彼は気づかないだろう。
私の呼吸と彼の呼吸。二つの息遣いが確かに重なった。