彼は、突然しゃくり上げるように話出した私を見ても、先ほどまではただ頷くだけで何も言わなかった。でも、「仕事が失敗したら」なんて言ってしまった今、きっともう頷いてなんかくれない。
「思いませんよ」
降ってくる、という言葉がこれほどぴったり合う場面に、私はかつて遭遇したことがない。
彼は、とても優しいまなざしで私のことを見ていた。その瞬間、店員さんや他のお客さんの視線などどうでもよくなった。
「確かに、失敗したら気分が下がりますし、その時はもうこんな仕事やるもんかって思います。でも、不思議と次の日にはまた頑張ろうって思えるんです。この仕事をしたいって、自分で決めたからでしょうか。それか、ただ惰性で生きてるからなのかもしれません。また失敗して、同じようにへこむことがあれば、また頑張ろうって思った自分を憎むのかもしれませんけれどね」
彼はそこで赤ワインを一口飲んだ。頬とおでこが赤くなっている。多分彼も大概酔っ払っている。それなのに、こんなにも響くのはなぜだろう。
こんなにも、彼の言葉が心をいっぱいにするのは。
「ただ、あなたの気持ちもよく分かります。努力が裏切られるのが怖い気持ちも。でも、それでも良いと思います。何もしないよりは、怖がりながらも変わろうとするのが。だから、桜庭さんは前に進んでいると思います。少なくとも、心の底では“変わりたい”って思っているんですから」
じわじわと、自分の視界が滲んでゆくのが分かった。
私、誰かに認められてほしかったのかな。
変わりたい。前に進みたい。このまま小さな書店で、一生独りで生きてゆく人生から。抜け出したい。誰に言われなくても、母に言われなくても、自分が一番そう願っている。なにも、結婚だけじゃない。ただ何かに夢中になる人生。次のライフステージ。学生時代の友人たちのように、仕事や結婚、子育て。なんでもいいから、進んでいるという感覚に浸りたかった。
進んでいるんだよ、と誰かに認めて欲しかったのかもしれない。
「……ありがとうございます。それから、変なこと言ってごめんなさい」
店員さんに持ってきてもらったお水を口に含む。ようやく、頭が冴えてきた。
「いえ、僕は嬉しかったですよ。あなたの本音が聞けた気がして」
芦田さんがにこりと笑う。
初めてだった。生まれて初めて、身内以外の人の、優しさに包まれた。こんなにも温かくて愛しいことも、初めて知った。
芦田さんとご飯に行って以来、私たちはちょくちょく二人で遊びに行くようになった。といっても、書店員の私は、休日は仕事に出ているため、いつも平日の夜に待ち合わせした。
一番楽しいのは月曜日の夜だ。
サラリーマンたちにとって、一週間の始まり。だから、飲食店にはあまり人がいなかった。
皆が仕事で疲れている月曜日の夜に、男性と二人でご飯に行くちょっとした背徳感と優越感。そんなくだらない陳腐な感情に浸りたいと思ったのも、きっと一緒にご飯に行く相手が芦田さんだったからに違いない。
もちろん、彼にとっても月曜日は一週間の始まり。しかし、月曜日の夜、彼はいつも笑顔で桜庭書房に足を運んでくれた。彼が一冊の本を買うまで、私はじっと動かない。他のお客さんがいることもしばしばあるため、平静を装い、普段と同じ店員を演じる。でも内心は、早く彼が本を買ってくれて、お店を閉められる時間が来るのを待っていた。商売人として自分でもどうかと思うが、はやる気持ちには逆らえない。
そんな、明るい一週間の始まりの月曜日に夜ご飯にでかけること数回。確かあれは、五回目のご飯の時だったと思う。いつものように電車から降りて、彼が私の家まで送ってくれ、お別れをする直前だった。
「桜庭さんのことが好きです。僕と付き合ってくれませんか」
想像していたよりもずっと、ドキドキした。
これまで異性との交際経験もなければ、好きな男の子から告白されたこともない。
だから、告白という告白を、この日人生で初めて経験した。
漫画や小説で同じようなシーンに出会っては、ヒロインと一緒にときめいたりドキドキしたりした。けれど、実際に自分が好きだと思っている人から告白の言葉を聞いた瞬間、これまで二次元の世界で経験していた感情とは全く違う気分になった。
だって、こんなに心臓が鳴ったことはない。
こんなに愛しくて、こんなに嬉しいと思ったことはない。
明かりの消えた桜庭書房の店の前で、私は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
よかった。今日は、ニケもいない。
人間の言葉など分からないとはいえ、自分の無防備な姿を彼に見られるのは些か具合が悪かった。
「わたし……」
どんな言葉を繋いだらいいか、分からない。何せ、初めての告白。こういう時、人はどんな反応をするものなんだろう。
芦田さんは、口をきゅっと結び、私の目をじっと見つめていた。こういう場面で、目を逸らさずにいられる彼がすごいと思う。私は恥ずかしくて、目を逸らしそうになった。けれど、彼の真剣なまなざしに、私もちゃんと応えなくちゃいけないと思わされた。
「私も、芦田さんのことが好きです……」
必死に考えた結果、見つけた答えはとてもシンプルな言葉だった。
でも、私の答えを聞いた瞬間、彼の顔にぱっと花が咲いた。その純粋な反応に、私はこの人を好きなんだと余計感じさせられる。
「付き合ってください」
もう、言葉はいらなかった。
お互い、同じ気持ちでいるのだから。わざわざ言葉にすることもない。