私は、はっと彼の顔を見た。今この瞬間、芦田さんがこれまでよりもずっと近い存在に感じた。まだ出会ってから2回しか話していないのに。しかも、どちらも私は店員で、彼はお客さん。私は仕事の合間に、彼の話を聞いているだけ。それなのに、こんなにも近い。
「どうかされました?」
「い、いえ。なんだかちょっと、不思議な感じがして。こうして芦田さんと時計の話やお仕事の話をしてるのが。私たち、店員とお客さんなのになあって」

それでも、私はもう少しだけ、あなたと話がしたい。
お互い仕事中だし、良くないことは分かっている。
でも、知りたい。
あなたという人間を、もう少しだけでも知りたいのだ。

「ははっ。確かにそうですね。あなたと話していると、時間を忘れるんですよ、僕」
「今、初めて自分のこと“僕”って言いましたね」
「あ、本当だ。プライベートではこっちが自然なんですよ」
「それはちょっと、嬉しいです」

初めてだった。他人と、言葉のキャッチボールが止まらないことが。私は、昔から友達が少なかったし、数少ない友達は自分と同じで、決しておしゃべりではなかった。それでも居心地が良いから友達なのだけれど、出会って間もない人とこれほど話せるのは、芦田さんが人の話を引き出したり、自分の話をしたりするのが上手だからだろう。

「雨、もう止みそうですね」
「あら、本当に」
芦田さんに言われるがままに、窓の外を見た。どうやらにわか雨だったようだ。日が暮れて、外は薄暗い。
「桜庭さんと話していると、雨が降るんですね」
「それだと私が雨女みたいじゃないですか」
「いいんですよ。僕は雨が好きなんです」
「じゃあ、私だって良いです。雨、好きですから」
中学生みたいな言葉遊び。胸が躍った。こんな気持ちになったのは、いつぶりだろう。

「桜庭さん、よかったら今度、夜ご飯でも食べに行きませんか」
嫌な感じは、全くなかった。むしろそれが自然だというふうに、私には聞こえた。心のどこかで、きっと私も望んでいたんだろう。
「はい、ぜひ」
古ぼけた書店の中でだって、新しい物語には出会えるのだ。