「……ありがとうございます。自分の中では、一生懸命やっているつもりなんですけれどね……」
そう言う芦田さんの表情に、少しだけ陰りが見えたのを、今でもはっきりと思い出せる。
「どうかされましたか」
彼は、周りに他のお客さんがいないことを確認すると、「携わっていたプロジェクトが頓挫したんです」と、訥々と話し始めた。

彼は、自分はプロモーション会社で働いていると言った。実店舗を持つ企業が新店を出した際にPRをしたり、新しい商品の販売促進を手伝ったりする仕事だそうだ。

「大手の、食品会社が実店舗を出すことになり、その企画を考えていたんです。その会社は今まで店舗など持たないメーカーだったので、初めての試みでした。もともと担当していた得意先だったので、私がリーダーになり、数人でPRの企画を練りました。いつも贔屓にしてくださるところでしたし、何より夜遅くまで何度も会議を重ねて考えた企画に、自信がありました」

私は、一般企業で働いたことがないため、出来る限りの想像力を働かせて、深夜にオフィスで話し合いをする社員さんたちを思い浮かべた。
「企画は、コンペで決められることになりました」
「コンペ?」
「私たちと同じようなPR企業が、同じように企画を提案して、一番良かった提案を食品会社が採用するというやり方です」
「なるほど。それは、プレッシャーでしょう」
「そうですね。競合も、同じように案をしっかりと練ってきますからね。でも、提案の日を迎えて、私たちは確信しました。自分たちの提案が受け入れられたと」
「どうしてですか」
「提案のプレゼンをしているとき、得意先の担当の方が『御社の提案を採用したい』とはっきりと口にしたんです。普通はそんなふうにはっきりと断言されることはありません。だから、今回も勝ったと思いました。それまでも、何度かコンペに参加したことがありましたが、8割はうちがとっていました。それほど、相手方の会社には懇意にしてくださっていたのです」
「確かに、そこまで言われると自信を持ってしまいます」

「コンペ」の雰囲気がどんなものか想像がつかないが、提案をしたあとで先のような反応があったら、私でも舞い上がってしまうだろう。
「はい。その言葉に、油断していたんです。でも」
芦田さんがお仕事の話をしている間、数人のお客さんが出たり入ったりしていった。側から見れば、出版社の営業マンと店員が本の話をしているようにしか見えないだろう。

私は、彼の次の言葉を待った。苦い表情をしているところを見ると、その先に良い話が待っていることはないと簡単に分かったけれど、彼の一連のストーリーに、いつしか私は釘付けになっていた。
「結局、提案が通ったのは、競合会社でした。うちと1,2を争う会社です。名前くらいは、一般の人も知っているかもしれません」
「どうして、でしょうか」
私がそう訊くと、芦田さんは眉根を寄せて悔しそうに笑った。胸が締め付けられるような表情。
「上の判断でしょう。営業担当の方は、間違いなく私たちの案を気に入ってくれていました。けれど、彼らの上司——つまり、今回のコンペの決定権を持つお偉いさんが、競合の案を推した。だから、私たちは負けたのだと思います」
「そんな……」
「こればっかりは仕方ないですね。サラリーマンの性みたいなもんです。得意先の担当の方も、参っている様子でした」

分からなかった。私は、これまでずっとこの小さな書店でしか働いたことがない。しかも、従業員はおろか、私を指導してくれる上司は身内だけ。

営業の担当者が、芦田さんたちの案が良いというのに、他の案が選ばれてしまうのか。だったら、何のために“担当”なんて人がいるんだろう。結局は、上の立場の人の良いように物事は進んでしまうのだ。

「……悔しい、ですね」
思わず、口から漏れた。一般の会社員として働いたことはないけれど、芦田さんの立場で同じ経験をしたら、さぞ悔しいことだろう。精一杯出来る限りのことをして、先方にも認められたのに、「権力」には勝てない。
「ええ。悔しくて、今日はちょっとやる気が削がれています。だからこんなに話してしまったんですよね。すみません、お仕事中なのに」
「いいえ。私はただ、聞いていたいだけなので」
「全くです。桜庭さんといると、色々と話したくなるんですよね。聞き上手だからでしょうね」