1週間の始まりの日だというのに、妙なことを思い出してしまった。
気がつげば十分に、看板を拭き終えていて、ほこり一つ見当たらなくなっていた。
「にい」
看板拭きを終え、脚立から降りると、足下でニケがいつものように鳴いた。ご飯を食べたあとはすぐに眠ってしまうのにどうしてだろうと思っていると、ぽつりと額に冷たい感触がした。

「あら」
雨だ。
どうして、さっきまであんなに晴れていたのに。これじゃまた、汚れてしまうかもなあ。
ニケはさっと四本足で立ち上がり、店の裏の方へ駆けて行った。そちらの茂みが、彼のすみかなのだ。
急いで脚立をたたみ、倉庫に運ぼうと脚立を持ち上げた時だった。
そっと、誰かの手が脚立に触れ、私の頭上から「降ってきましたね」と声がして。
「あっ」
振り返って見上げた先に、彼の姿があった。

「こんにちは。1週間ぶりですね」
「芦田さん!」
思わず弾んでしまった自分の声に、自分で驚く。私、どれだけこの人を待っていたと思われるんだろう。
「営業で外回りをしていたんで、休憩ついでに覗きにきました」
「そうなんですね」
「重たいでしょうし、中まで運びますよ」
「ええ!? それは、さすがに申し訳ないです。私運びます」
「いいからいいから」
ひょいっと、道端に転がっている石ころでも拾うみたいに、彼は軽々と脚立を持ち上げた。
「……すみません」
「いえいえ。それより、どこに運びましょうか」
「あ、あちらです。お店の奥の倉庫に」
「分かりました」
勝手知ったる足取りで、彼はお店の中へとずんずん進み、「失礼します」とレジカウンターの奥に入って行った。
止める暇なんて全然なかった。彼は、重たいものを持つのは男の仕事だと言わんばかりに、店員と客の立場も忘れ、当たり前のように脚立を倉庫まで運んでくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
「お安い御用ですよ」
確かに、背の高い脚立は、いつも運ぶのに苦労していた。偶然とはいえ、奥まで運んでくれてとても助かった。
「今日も、お一人で店番しているんですね。大変でしょう」
「いえ、平日はいつもこうなので。それに私、一応店長ですし」
芦田さんは「店長」という言葉に目を丸くした。そうか、前回来たときには伝えていなかったか。
「そう言えば、桜庭さん、でしたね。店の名前と同じですし、奥がご自宅のようですから、店長、確かに納得がいきました」
「名ばかりの店長ですよ」
「そんなことはありません。お若いでしょうに、ご立派なことです。私なんか、ずっと雇われ人のサラリーマンで良いのかとつくづく思います」
彼が、自分の身の上をそんなふうに思っていることは意外だった。こんな小さな書店で店長をやるより、将来安泰の一般企業でしっかりと働いている方が、堅実的だと思っていたからだ。
「何か、びっくりされてますか?」
「ええ……先週会った時から、スーツが似合うお方だなと思っていたので」
「ははっ。それはありがとうございます。スーツを着たら、みんな同じになってしまいますけれど、これはこれで楽なんです」
「いえ、営業のお仕事に精を出されてるんだろうなって」
本心から、感じたことだった。
私は友達も少ないし、数少ない友達はみな結婚や子育てで、「仕事」から離れている。大学時代の男友達は、もうほとんど連絡すらとっていない。だから、自分の中に「サラリーマン」というサンプルがそもそもなかった。
でもだからこそ、わざわざ本屋で営業トークの本まで買って、仕事に向き合う彼が眩しかった。