「信じてもらえないかもしれないのですが、この時計——『ブラック時計』と呼んでいるのですが、ちょっとおかしな時計なんです」
今まで、赤の他人に時計の話なんてしたことはなかった。話したところで、信じてもらえるとは到底思えないから。特に、知り合ったばかりの人にこの話をすれば、桜庭書房の店員は虚言癖がすごいとか、頭がおかしいとか、悪評が立ちかねない。そんなことになれば、ただでさえ厳しい商売状況が余計悪化するだけだ。
「おかしい、というと?」
「時計をつけた人に、“あるもの”が見えるようになる、というものです」
我ながら、とても分かりにくい説明だと思う。けれど、この時計の効果を完結に言い表すと「何かが見えるようになる」。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「なるほど。時計を着けた人にだけ分かる効果が現れる、ということですね」
彼は、物語の中の探偵役のように、ふんふんと頷きながら私の話を聞いていた。
それがあまりにも衝撃で、私は自分の目を疑ってしまう。普通の人なら、こんな話を聞いたところで、およそ信じてくれはしないからだ。信じるか信じないかの前に、目を白黒させて、「この人は大丈夫か」という疑念の眼差しを私に向けてくるだろう。
けれど、目の前のサラリーマンは、いかにも興味ありげに話の続きを待っている。
この人が将来、悪徳商売に引っかからなければいいけれど……。
「そう、ですね。見えるものは、人によって違うそうです。例えば、誰かの心の言葉が見えたり、幽霊が見えたり。あ、これは祖父に聞いた話なんです。私は着けたことがないので」
「人の心や幽霊……それが本当なら、時計を着けて、効果的なこともあれば、見たくないものを見てしまうこともあるということですね。なかなか、面白い」
だんだんと、彼の表情が輝き始める。大きくてレアな虫を捕まえたときの少年の瞳と同じだった。彼にとって、私の話は刺激が強すぎたらしい。
素直に楽しんで聞いてくれている彼の反応に、逆に私の方が圧倒されてしまい、「もっと話してほしい」と目で訴えかけてくる彼に対して、身じろぎしてしまった。
「すみません。まさか、こんなに真剣に聞いてくださるとは思わなくて」
引き気味の私の態度を見てようやく察してくれたのか、彼は「ああ」と手を顔の前で振った。
「こちらこそ、お時間を取ってしまって申し訳ない。だいぶ時間も経ちましたし、続きはまた後日改めて聞きに来ても良いでしょうか」
「もちろんです」
彼の言う通り、本を購入してから2、30分は過ぎていた。特定のお客さんと長く話したことがなかった私としては、信じられない気分だ。
『ブラック時計』について、どれだけ話ができるかはさておき、また来てくれると言ってくれたのは嬉しかった。
「次回来るまでには、この本読んでおきますね」
左手を軽く挙げ、ひょこっと頭を下げる彼に、私は深くお辞儀をした。
本を読んでこなくたって、来てくれるだけで良いのに。きっと彼は次回また新しい本を買いに来るという意味で言ったのだろう。
「分かりました。今日は、引き留めてごめんなさい。話を聞いてくれてありがとうございました」
とんでもない、というふうに頭を下げる男性。さすが、サラリーマン。品位というものは表情や態度に表れるものだ。
彼を見送るために、私はお店の前まで進んで玄関の扉を開けた。
「あ——」
いつからなのか分からないが、外はしとしとと雨が降っていた。ただでさえ寒いのに、雨のせいで、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
「雨、降ってきましたね」
まいったな、傘持ってきてないなあ。
ゴソゴソと鞄を漁りながら、彼はそうひとりごちた。私はすかさず店の奥から、お客さんが忘れて行ったビニール傘を持ってきて、彼に渡した。
「いいんですか」
「はい。いつの忘れ物か分からなくて、ずっとお店に置いておかないといけないのも困っていたんです」
「そうですか。ありがとうございます。こりゃますます、もう一度来なくちゃいけませんね」
笑いながら、男性はビニール傘を受け取る。身なりは立派なサラリーマンなのに、時々少年のようにはにかみ、普通の人が困る出来事を笑って済ませるところが印象的だった。
「傘も、使ってくれた方が嬉しいでしょう」
「確かにそうかもしれませんね」
私、雨は結構好きなんです。だから、傘を買うときは念入りに考えて選びます。お気に入りのデザインの傘を持ってると、気分が上がると思いませんか」
「ははっ。なるほど、女性は傘にこだわりを持つのか。私も、傘のこだわりじゃないですけど、雨は好きです。雨の日はいつもと違う風景が見られますからね。感傷に浸りたいときなんかも、うってつけです」
「ふふ。面白い考えですね。とくに、後者のほうが」
「でしょう。よく、お前は変人だと言われます」
確かに、彼は変わっているのかもしれない。こんな小さな書店にわざわざビジネス本を買いに来て、店員の気まぐれの話に付き合ってくれさえした。
「あの、もしよければお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
不快に思われるかもしれないと思いながら、けれど彼ならあっさり教えてくれるような気もして、思い切って尋ねた。
「芦田です。芦田昴」
「芦田昴さん」
すばる、と心の中で一回唱えてみた。きれいな響き。きらっと光る星たちが浮かんだ。
「素敵な名前ですね」
「ありがとうございます。店員さんは?」
「私は、桜庭恵実といます。“めぐみ”に“みのる”で恵実です」