「これください」
しばらくして、彼はレジに一冊の本を持ってきた。『一流の営業トーク』というタイトルの本。いかにも、営業マンが読みそうな本だと思いつつ、そんなことは微塵も考えていないふりをして、お会計をする。
「1980円です」
正直、本が一冊売れた程度では、ほとんどこちらの利益にはならない。だから、商売人としては最低3冊はまとめ買いして欲しいなあと思うけれど、さすがにそれも顔には出せない。
男性は、財布から二千円札を取り出して、トレーの上に置いた。会計をしていると、彼の左腕の時計に、なぜか目がいってしまう。
「二千円、お預かりします」
どうして、と不思議だった。
なぜこんなにも、彼の黒い腕時計に目が吸い寄せられてしまうんだろうか。
普通の男性が持っている、普通の腕時計のはずなのに。
一つのことが気になりだしたら、永遠に気になってしまう性分だったため、思わず彼に「格好良い時計ですね」と言ってしまった。
男性は、「お」と私の言葉に素早く反応し、じっと自分の左腕を見た。
「ありがとうございます。古びていて、格好良いなんてものじゃないですけどね」
ははっという彼の笑い声が、静かな店内で以上に大きく響いて感じられた。
彼の口ぶりからして、おしゃれ目的ではめているのではないのだと分かった。てっきり、本人にしか分からない魅力があるのだと思っていたのに。古びた時計は誰が見ても古びた時計なのか。
「正直、かなり年季が入っているんだとは感じました。でも、古いものをつけるのにも、何か理由があるんじゃないかって、気になりまして……」
その時ばかりは、自分と彼が「店員とお客さん」だということを忘れていた。書店でひたすら本と向き合う生活をしていたら、たまにはこうして誰かと込み入った話をしたいと思うのだ。従業員もアルバイトが二人いるだけだ。
「なるほど。なかなか、観察力がありますね」
彼も彼で、私のつまらない疑問によく、嫌な顔一つせずに答えてくれたものだ。営業という職業が、彼にそうさせたのだろう。愛想が良い人でよかった。もし逆の立場だったら、「さっさと会計を済ませて欲しい」とちょっとイラついていたかも。
「いや、ただ気になっただけで」
「これは、私の父から受け継いだ時計でね。父が、若い頃につけていてよっぽど気に入っていたみたいなんです。でも、父が昨年亡くなってしまって。一緒に燃やしてしまってもよかったんですけれど、なんだかそれももったいなくて、今は僕が使っているというわけです」
「まあ、お父様から……」
彼が、瞳を少しだけ下げて、一瞬だけ物憂げな表情をした。時計を意識すると、お父さんのことを思い出すんだろう。私も、最近祖母を亡くしたから分かる。この書店は祖母が開業したお店だから。店の中で本を眺めていると、ふと思い出すことがあるのだ。祖母に、よく子供向けの本を選んでもらったことを。
彼が、お父さんの形見である時計をはめているという切ないストーリーも心を揺るがしたが、それ以上に、彼の時計がお父さんから「受け継がれたもの」であるところが気になった。
私はその話を、聞いたことがあったからだ。
というか、まさに彼がつけているのと同じような時計を、この書店で目にしたことがある。だから、先ほどから彼の腕時計が気になって仕方なかったのだ。
私は記憶をまさぐって、それが何であったかを思い出そうとした。
どこにしまったものなのか、誰からもらったものなのか。いや、そもそも貰いものなのか、彼のように、ただ私の親族の誰かが身につけていたものだったか。
「少しだけ、待っていてくださいませんか」
もう、ほとんど手前まで出かかっている記憶を、どうしても引きずり出したくて、思わず彼にそう言ってしまった。
目の前のお客さんは、両眉を上げて私を見た。ふらっと立ち寄った店で店員からこんなかたちで引き止められたのが初めてだからだろう。かくいう私も、商売とは関係のないところでお客さんを引き止めたのは初めてだった。
「ええ、構いませんよ」
相手が奇跡的に紳士な方だったことに、ひたすら感謝した。一度気になりだしたら、やっぱり答えが分かるまで止まらない。普段はそこまで社交的だったり、会話好きだったりするわけでもないのに、時々こんな発作が起きる。
「良かったらこちらにお掛けください」
レジカウンターの中から、普段自分が使っているちゃちな椅子を差し出して、彼に腰掛けてもらった。